最後にピアノを弾いたのは、小学3年だったか、4年だったか、曖昧だ。ピアノを習っていた。親あるある、何かしら習い事をさせたい。その候補にはダンスという選択肢もあったらしい。しかし、恐らく私があまりにも内気なのでピアノの方が向いていると判断されたのだと思われる。それから間も無く、ヤマハの集団オルガンレッスンに体験でぶち込まれた私は同い年12、3人に囲まれ恐怖し行きたくないと主張、個人レッスンを受講することと相成った。4歳ごろのことだ。
もちろん、内気さとピアノの向き不向きには一切の相関は無いため、レッスンにより私が才能を開花させる事は一切なかった。しかし別に嫌いではないという理由から無気力にだらだらと10歳近くまで続けることになった。
特別弾きたい曲があるわけでもなく、ただ子供向けの練習曲をぼーっと楽譜をなぞる、向上心ゼロのレッスンを受けていた。まあ1曲通して弾けるようになったらなんか嬉しいよね、くらいのものだったと思う。時々、同じ教室に通っている他の子どもが弾いている曲が気になって、いつか弾いてみたいと思ったりした。でも、そこに行くにはあと2冊、練習曲の本を終わらせなきゃいけない。大体、1年半くらいかー。などと考えて、面倒だなあ、こんなにまだつまらなさそうな曲がたくさんあるなあ、とうんざりした。
それにも関わらず私は自転車を15分漕いでピアノを週2回習いに行っていた。今の自分を考えると、すぐ辞めそうなものなのに、と不思議な気持ちになる。
私のピアノレッスンに関する最後の印象は「ピアノがつまらない」だったため、自分はピアノを弾くことは一生ないだろうと思っていたし、ピアノをイヤイヤ習いに行かされていたと思っていた。その原因は、人生2回目か3回目かのピアノ発表会の課題曲だった。ブルグミュラーの練習曲、「アラベスク」の連弾だった。これが本当につまらなかった。元々のアラベスクは右手と左手で違う旋律を奏でるわけだが、連弾のため、右手と左手が全く同じ旋律を同時に奏でる楽譜に再構成されていた。そもそも曲が好きじゃなかった。薄暗くて、派手な展開もなく、胸を打たない。練習曲なのでそうだ。そのくせ、右手と左手がズレると粗が目立つ。やはり練習曲だ。正しい運指で正しく弾かなければ、綺麗に弾けないのだ。筋トレに近かった。苦痛だった。発表会前の数ヶ月、これ以外の練習が許されなかったのも拍車をかけた。家で1人、伴奏もなく筋トレをする退屈さよ。私はこのせいでピアノを嫌いになってしまった。
その後、学校のマーチングバンドに入り練習時間が取れなくなり、ピアノとは距離ができてしまった。確か先生に「もうここには来ないかも」という感じで辞めることを宣言し、鮮やかにピアノとは縁を切った。あまりにも鮮やかで、自分で言ったくせに本当にそれ以降通わないことが自分でも信じられなかったような気がする。先生の口ぶりも信じていたなかったような気もする。数年も習ったくせに、躊躇いもなく、別れを惜しむ気持ちも一切なく、本当にすっぱりと辞めてしまった。教室はクーラーが効いてて、目の前の学校の花壇にはひまわりが咲いていて、夏の水色の空だった。さっき、地図を見たらその教室は無くなっていて、レンタサイクルになっていた。先生もそれなりの年齢だったはずだからもう亡くなってしまったかもしれない。あれっきりだ。私は子どもだったから、そんな風に何かを突き放しても永遠が続くと思っていた。
最後のレッスンは、今でもはっきり覚えている。皮肉なことに、私は最後に初めてピアノを弾くとは何かが分かりかけてしまったのだった。曲名は忘れた。
大して練習もせずに、教室に行き、暗譜もせず、moderateと書いてあるのに甘えそれ以上にゆっくりと楽譜を読みながら適当に弾き始めた。適当にペダルを踏んで、誤魔化しながら。合格は貰えないだろうと思っていたのに、ものすごく久々に一発合格をもらったのだった。「は?」と口には出さなかったがとても困惑した。なぜ、この演奏が良くて今までのは評価されなかったのだろうか。意味がわからない、と思った。そしてピアノって何なんだよ、という気持ちを強めた。この時にはピアノをやめることを決めていたので、そこまで深く考えることはなかった。その同じくらいの時期に、私が家で弾いていたキーボードと教室のピアノは全く違う楽器で、鍵盤をどのように叩くかで全然違う調子に聞こえることにようやく気が付いた。違う楽器だということは知っていたけど、指から何も感じることができていなかったのだ。家で弾くピアノは力も要らなくて簡単なのに、教室で弾くと手や腕が疲れる、ということに辞める頃になってやっと気が付いた。ピアニッシモやフォルテの意味は知っていたけど、音楽記号以上にいろいろな表現があるんだということも、しばらく経ってからようやく気が付いた。それは、ギターを始めてからだろうか。そして高校生になって、タワレコでたまたま流れていたクラシックを聞いて、同じ曲でも弾く人によって全然違う曲になるんだということを実感として初めて理解した。頭では分かっていたはずなのに。
ピアノを辞めてからは、ピアノが弾けるという事実を抹消し、自分自身でさえも忘れて生きていた。弾くチャンスはあったはずだし、練習さえすればポップスの伴奏くらいは弾けたはずだが、「アラベスクさえまともに弾けないし」というところでセルフイメージが終わっているので、あえてチャレンジすることもなかった。
だから私の中で、ピアノは「嫌々習わされていたことがあるが、もう弾けない」かつ「しかし、最後のレッスン曲のことが引っ掛かる」というステータスの存在になっていた。
ピアノを辞めたからといって、音楽と縁が切れることはなく、むしろ興味関心はもっと強くなり、楽器も色々やった。ギターはエレキとアコギ、ベースも去年会社の人に唆されて買った。自ら音楽を聞くようになってから、ベースはずっとやりたい楽器ではあったが、親にベースは潰しが効かないからギターをしろと言われエレキを買わされて仕方なくエレキギターをやり、大学では惰性でそのままアコギに入門した。
エレキギターはずっと本当にしっくりこなかった。弾くのも楽しくなかったし、すぐピーーーーーーーーって言うし、すぐ隣の弦が鳴るくせに鳴らしたい音はならなかったりする。ガサツな人間には無理だあの楽器は。激しい感情表現をするには指先の繊細さが必要なのだ、矛盾している。ピックを持つのもせせこましくて嫌いだ。一方、アコギはもうちょいしっくりきた。パーカッシブなアプローチが好きなのだとその時気が付いた。今思うと音も嫌いじゃない。ベースもパーカッション寄りの楽器なので、楽しい。音もずんずん言っててかっこいい。この調子でベースを当分続けることになるのだろうと思っていた。ただ、問題は弾きたい曲というものがなかったのだ。いや本当はある。チャレンジもした。ただ弾けるようになるという手応えがなかった。そんな曲ばかりだったり、楽譜がないので耳コピするしかない、みたいなものばかり。ちょうどいい難易度で、妥協して弾いてもいい曲・・・というのが見つからない。
その時に気が付いた。今、バンド音楽、そんなに好きじゃないしベースに興味ね〜〜〜。
実際近年メインで聞いていたのはHIPHOP、エレクトロニック、ジャズ、クラシック・・・・・。ベースがゴリゴリ鳴ってたり、弾きたいと思えるものがあまりなかった。ベースを始めるのが遅すぎた。
いよいよ、再び楽器弾くこともなくなるか。
そこで別の道を提示してくれたのは氷室零一だ。私が30にして初めて沼にハマった二次元キャラだ。彼をイメージした香水も買った。しかも2個もだ。
氷室零一は両親がピアニストで、彼もピアノを弾く。学校で、幼馴染の経営するバーで。彼は感情表現が苦手なキャラクターなのだが、ピアノを弾いている時だけは感情を露わにする。感情に関する語彙が少ないため、ピアノで自分の想いを表現したり昇華しようと試みる。
そしてその様を見て、30にして初めて気が付いた。言葉にできない感情もあるなと。言葉にできても、伝わらないことの方が多いから、私はそのやり場のない気持ちを音楽にそれを委ねていたのだなと。今までもずっとそうしていた。
うわ、つーかピアノ弾きてー。弾きたい曲いっぱいあるし表現したい思いもいっぱいあるー。
ピアノ買うか。でも買ったところで、続くのかな。
いや、この10年でピアノ弾けたらなと思ったこと幾度もあったし、この際続かなくてもいい。これ以上音楽を楽しもうと思ったら、ピアノで音楽理論を理解するとか、そういう経験が必要なのも感じている。
でもどうしよう。本当に買うのか?
1ヶ月以上悩んだ末、買った。
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電子ピアノ。鍵盤の重さや響きにとてもこだわって、予算の範囲で納得できる限りの選択をした。
あまりにも楽しくて、土日で10時間弾いた。エリック・サティのジムノペディ第一番。思っていたよりも身体はピアノを弾くことを覚えていて、期待していたよりも楽譜も読めるし、旋律を奏でることもできた。
体の底の悲しい気持ちが救われるかのようだ。
零一が弾いていたバッハの2声のインベンションも少しなぞったりして、あの曲の求める基礎力のレベルの高さに新鮮に驚くなどした。
そして、あの時私を苦しめたブルグミュラーのアラベスクを今弾いたら、ああ、この曲が演奏者に求めていることはこれだったのか、ということが嘘みたいにはっきりとわかった。楽しかった。ブルグミュラーと初めて会話が成立した、と思った。
いろんな音楽や楽器を経てから戻ってくるピアノはとても面白くて、子供の頃にもっといろんなことに気付けたらよかったのにと思わないこともない。しかし大人にならないと気付けないことはたくさんある、というだけの話だろう。
いつまで続くかわからない。途中空白が生まれるかもしれない。でももう二度と離したくない。上手くならないかもしれない。停滞があっても、英語が聞けて喋れるようになったのと同じように、少しずつ前進するものなのだ。