ピアノと私、または音楽と私

最後にピアノを弾いたのは、小学3年だったか、4年だったか、曖昧だ。ピアノを習っていた。親あるある、何かしら習い事をさせたい。その候補にはダンスという選択肢もあったらしい。しかし、恐らく私があまりにも内気なのでピアノの方が向いていると判断されたのだと思われる。それから間も無く、ヤマハの集団オルガンレッスンに体験でぶち込まれた私は同い年12、3人に囲まれ恐怖し行きたくないと主張、個人レッスンを受講することと相成った。4歳ごろのことだ。

もちろん、内気さとピアノの向き不向きには一切の相関は無いため、レッスンにより私が才能を開花させる事は一切なかった。しかし別に嫌いではないという理由から無気力にだらだらと10歳近くまで続けることになった。

特別弾きたい曲があるわけでもなく、ただ子供向けの練習曲をぼーっと楽譜をなぞる、向上心ゼロのレッスンを受けていた。まあ1曲通して弾けるようになったらなんか嬉しいよね、くらいのものだったと思う。時々、同じ教室に通っている他の子どもが弾いている曲が気になって、いつか弾いてみたいと思ったりした。でも、そこに行くにはあと2冊、練習曲の本を終わらせなきゃいけない。大体、1年半くらいかー。などと考えて、面倒だなあ、こんなにまだつまらなさそうな曲がたくさんあるなあ、とうんざりした。

それにも関わらず私は自転車を15分漕いでピアノを週2回習いに行っていた。今の自分を考えると、すぐ辞めそうなものなのに、と不思議な気持ちになる。

私のピアノレッスンに関する最後の印象は「ピアノがつまらない」だったため、自分はピアノを弾くことは一生ないだろうと思っていたし、ピアノをイヤイヤ習いに行かされていたと思っていた。その原因は、人生2回目か3回目かのピアノ発表会の課題曲だった。ブルグミュラーの練習曲、「アラベスク」の連弾だった。これが本当につまらなかった。元々のアラベスクは右手と左手で違う旋律を奏でるわけだが、連弾のため、右手と左手が全く同じ旋律を同時に奏でる楽譜に再構成されていた。そもそも曲が好きじゃなかった。薄暗くて、派手な展開もなく、胸を打たない。練習曲なのでそうだ。そのくせ、右手と左手がズレると粗が目立つ。やはり練習曲だ。正しい運指で正しく弾かなければ、綺麗に弾けないのだ。筋トレに近かった。苦痛だった。発表会前の数ヶ月、これ以外の練習が許されなかったのも拍車をかけた。家で1人、伴奏もなく筋トレをする退屈さよ。私はこのせいでピアノを嫌いになってしまった。

その後、学校のマーチングバンドに入り練習時間が取れなくなり、ピアノとは距離ができてしまった。確か先生に「もうここには来ないかも」という感じで辞めることを宣言し、鮮やかにピアノとは縁を切った。あまりにも鮮やかで、自分で言ったくせに本当にそれ以降通わないことが自分でも信じられなかったような気がする。先生の口ぶりも信じていたなかったような気もする。数年も習ったくせに、躊躇いもなく、別れを惜しむ気持ちも一切なく、本当にすっぱりと辞めてしまった。教室はクーラーが効いてて、目の前の学校の花壇にはひまわりが咲いていて、夏の水色の空だった。さっき、地図を見たらその教室は無くなっていて、レンタサイクルになっていた。先生もそれなりの年齢だったはずだからもう亡くなってしまったかもしれない。あれっきりだ。私は子どもだったから、そんな風に何かを突き放しても永遠が続くと思っていた。

最後のレッスンは、今でもはっきり覚えている。皮肉なことに、私は最後に初めてピアノを弾くとは何かが分かりかけてしまったのだった。曲名は忘れた。

大して練習もせずに、教室に行き、暗譜もせず、moderateと書いてあるのに甘えそれ以上にゆっくりと楽譜を読みながら適当に弾き始めた。適当にペダルを踏んで、誤魔化しながら。合格は貰えないだろうと思っていたのに、ものすごく久々に一発合格をもらったのだった。「は?」と口には出さなかったがとても困惑した。なぜ、この演奏が良くて今までのは評価されなかったのだろうか。意味がわからない、と思った。そしてピアノって何なんだよ、という気持ちを強めた。この時にはピアノをやめることを決めていたので、そこまで深く考えることはなかった。その同じくらいの時期に、私が家で弾いていたキーボードと教室のピアノは全く違う楽器で、鍵盤をどのように叩くかで全然違う調子に聞こえることにようやく気が付いた。違う楽器だということは知っていたけど、指から何も感じることができていなかったのだ。家で弾くピアノは力も要らなくて簡単なのに、教室で弾くと手や腕が疲れる、ということに辞める頃になってやっと気が付いた。ピアニッシモやフォルテの意味は知っていたけど、音楽記号以上にいろいろな表現があるんだということも、しばらく経ってからようやく気が付いた。それは、ギターを始めてからだろうか。そして高校生になって、タワレコでたまたま流れていたクラシックを聞いて、同じ曲でも弾く人によって全然違う曲になるんだということを実感として初めて理解した。頭では分かっていたはずなのに。

ピアノを辞めてからは、ピアノが弾けるという事実を抹消し、自分自身でさえも忘れて生きていた。弾くチャンスはあったはずだし、練習さえすればポップスの伴奏くらいは弾けたはずだが、「アラベスクさえまともに弾けないし」というところでセルフイメージが終わっているので、あえてチャレンジすることもなかった。

だから私の中で、ピアノは「嫌々習わされていたことがあるが、もう弾けない」かつ「しかし、最後のレッスン曲のことが引っ掛かる」というステータスの存在になっていた。


ピアノを辞めたからといって、音楽と縁が切れることはなく、むしろ興味関心はもっと強くなり、楽器も色々やった。ギターはエレキとアコギ、ベースも去年会社の人に唆されて買った。自ら音楽を聞くようになってから、ベースはずっとやりたい楽器ではあったが、親にベースは潰しが効かないからギターをしろと言われエレキを買わされて仕方なくエレキギターをやり、大学では惰性でそのままアコギに入門した。

エレキギターはずっと本当にしっくりこなかった。弾くのも楽しくなかったし、すぐピーーーーーーーーって言うし、すぐ隣の弦が鳴るくせに鳴らしたい音はならなかったりする。ガサツな人間には無理だあの楽器は。激しい感情表現をするには指先の繊細さが必要なのだ、矛盾している。ピックを持つのもせせこましくて嫌いだ。一方、アコギはもうちょいしっくりきた。パーカッシブなアプローチが好きなのだとその時気が付いた。今思うと音も嫌いじゃない。ベースもパーカッション寄りの楽器なので、楽しい。音もずんずん言っててかっこいい。この調子でベースを当分続けることになるのだろうと思っていた。ただ、問題は弾きたい曲というものがなかったのだ。いや本当はある。チャレンジもした。ただ弾けるようになるという手応えがなかった。そんな曲ばかりだったり、楽譜がないので耳コピするしかない、みたいなものばかり。ちょうどいい難易度で、妥協して弾いてもいい曲・・・というのが見つからない。

その時に気が付いた。今、バンド音楽、そんなに好きじゃないしベースに興味ね〜〜〜。

実際近年メインで聞いていたのはHIPHOP、エレクトロニック、ジャズ、クラシック・・・・・。ベースがゴリゴリ鳴ってたり、弾きたいと思えるものがあまりなかった。ベースを始めるのが遅すぎた。

いよいよ、再び楽器弾くこともなくなるか。


そこで別の道を提示してくれたのは氷室零一だ。私が30にして初めて沼にハマった二次元キャラだ。彼をイメージした香水も買った。しかも2個もだ。

氷室零一は両親がピアニストで、彼もピアノを弾く。学校で、幼馴染の経営するバーで。彼は感情表現が苦手なキャラクターなのだが、ピアノを弾いている時だけは感情を露わにする。感情に関する語彙が少ないため、ピアノで自分の想いを表現したり昇華しようと試みる。

そしてその様を見て、30にして初めて気が付いた。言葉にできない感情もあるなと。言葉にできても、伝わらないことの方が多いから、私はそのやり場のない気持ちを音楽にそれを委ねていたのだなと。今までもずっとそうしていた。

うわ、つーかピアノ弾きてー。弾きたい曲いっぱいあるし表現したい思いもいっぱいあるー。
ピアノ買うか。でも買ったところで、続くのかな。
いや、この10年でピアノ弾けたらなと思ったこと幾度もあったし、この際続かなくてもいい。これ以上音楽を楽しもうと思ったら、ピアノで音楽理論を理解するとか、そういう経験が必要なのも感じている。
でもどうしよう。本当に買うのか?

1ヶ月以上悩んだ末、買った。

電子ピアノ。鍵盤の重さや響きにとてもこだわって、予算の範囲で納得できる限りの選択をした。

あまりにも楽しくて、土日で10時間弾いた。エリック・サティのジムノペディ第一番。思っていたよりも身体はピアノを弾くことを覚えていて、期待していたよりも楽譜も読めるし、旋律を奏でることもできた。

体の底の悲しい気持ちが救われるかのようだ。

零一が弾いていたバッハの2声のインベンションも少しなぞったりして、あの曲の求める基礎力のレベルの高さに新鮮に驚くなどした。

そして、あの時私を苦しめたブルグミュラーのアラベスクを今弾いたら、ああ、この曲が演奏者に求めていることはこれだったのか、ということが嘘みたいにはっきりとわかった。楽しかった。ブルグミュラーと初めて会話が成立した、と思った。

いろんな音楽や楽器を経てから戻ってくるピアノはとても面白くて、子供の頃にもっといろんなことに気付けたらよかったのにと思わないこともない。しかし大人にならないと気付けないことはたくさんある、というだけの話だろう。

いつまで続くかわからない。途中空白が生まれるかもしれない。でももう二度と離したくない。上手くならないかもしれない。停滞があっても、英語が聞けて喋れるようになったのと同じように、少しずつ前進するものなのだ。

2024/05/06

久々にちゃんと休んだ感のある連休だった。なぜだろう。10連休なんてことをするのが久々っていうのもあるかもしれない。けど、能動的に動きつつ休む日は1日ゴロゴロできたのが大きかったかもしれない。風呂場の大掃除したかったけどできてないなとかはあるが……。

あとは、しばらく仕事を無理せずにした結果、ニュートラルな精神状態で休みに突入できたというのもありそうだ。自分の好きなことをたくさんできた。今までは10連休したらもういいやーという気持ちもあったけど、全然まだ休みたいねと思う。読みたい本がたくさんあるし、勉強したいこともたくさんある。インテリアを見繕いたいけど、終わらなかったし。英語で日記書く・AIと喋るのもやりたかったができてない。日記は今から書いてみるか。でもなんかドヤっているようで恥ずかしい。大した英語力もまだないのに。いやこういうマインドセットが日本の英語教育を殺したのでは?時々こうやってアウトプットできるようにしてみようかなと最近は思っている。

書いてみたが案の定美しくない文章が出来上がったため、以下ChatGPTによる推敲である。


Today, I went to a café to read and study, though perhaps those were just excuses to enjoy some coffee. Before moving to my current apartment, I hadn’t had the chance to savor good coffee at a nice café for quite a while. My recent move made it easy to explore various neighborhoods, and now I can casually visit cities with plenty of non-chain cafés. While coffee hasn’t always been my favorite drink (and still isn’t fully), the café’s iced decaf is delicious, especially when paired with cheesecake.

I ordered a non-decaf iced Ethiopian blend because the decaf version is also an Ethiopian blend, so I assumed it would be nice. Unfortunately, my assumption was wrong. Moreover, the cheesecake was sold out. The café wasn’t thoroughly cleaned, and my allergies worsened as the floor shook with each step someone took. The early summer heat filled the air, aggravating my asthma. Despite all this, I managed to finish reading two books. One of them was The Heart of Evil, which was recommended by a former colleague. I wanted to read the e-book in Japanese, but only the English version was available. I’m progressing at about 1% a day, currently at 8%. This challenging work is teaching me what reading in English truly involves and how to express ideas logically in the language. Do I regret it? About 20% yes, 80% no.


LLMってすごいねえ。


齢30にしておそらく初めて2次元キャラクターの偶像崇拝にハマってしまったため、火加減が不安定である。ここ10年くらいは女性アイドル(というかハロプロ)をゆるく追ったり追わなかったりしていたのでオタクではなかったわけではないのだが、ちょっと今までにない急騰具合かもしれない。BEYOOOOONDSハマった時以来ですかね。そう考えたら結構最近だな。いまこのタイミングで何故だろうと思ったけど3次元のあれこれに疲れてしまったのかもしれない。今好きなコンテンツは20年前のものなので、いきなり事務所を辞めるとかメンタルが理由で脱退するとか、急に自分好みではない方向性に変わるとかそういうのがない、という安心感もある。安心して推せる。推しという言葉が好きではないが・・・。

久々にこの感覚になったんだけど、こういう存在があると世界が輝くんだよね。氷室零一というキャラクターがジャズピアニストとクラシックピアニストの子どもかー、今まで中途半端にしてたけどもうちょっとジャズもクラシックも勉強してみようかなとか。生い立ちが自分と似てる部分もあるけど彼の性格と自分の性格の差分はどこで発生しているんだろうか、とか。ジントニックが好きって主音のトニックと掛けてますか?とか。

もっと自分のことを惹きつけるこの人のことを知りたい、という気持ち。今更だけど恋とか好きって一体なんでしょうね。もしかして、みんなこの疑問を感じるから世の中にラブソングが溢れていますか?
会ったことも実在もしない人間(芸能人もそうだと思っている)、2次元のキャラクターについては人間と言って良いのか?情報の集合でしかないはずなのに、それに惹かれるというのはなんとなく理解し難い感情だなと思う。実際には自分はそれを経験しているはずなので、なにかしら理屈があるはずなのだけど。脳内物質の悪戯に振り回されている。苦しく楽しい。

以下新規オタクによる氷室零一の話


ジャズってクラシックのカウンター的な存在だったと思ってて、なので両親がそれぞれその音楽やってるっていう設定がまず面白いなと思っている。で、生まれた息子は一見コンサバ一辺倒な性格に見える。吹奏楽部でもクラシックを本心ではやりたそうだし、即興性のあるジャズなんか好まなさそう。なんだけど、実際シナリオ内ではジャズピアノを弾くシーンがあり。

よく振り返るとトラブルや予想外の出来事に遭遇したらその場その場で考えを変えて行動しているようながする。自分の理想のルールや計画通りに進まなかったら強く動揺・激昂する性質の人もいるが、決してそうではない、というのが見えてくる。 「急ぎなさい、遅れを取り戻さなければ」とは言うので、やっぱり計画通りに進めたい性質の人ではあるのは間違いなさそうだけど、第一印象や周囲の印象からすると意外だが、自分の計画・ルールから逸脱することをそこまで恐れているわけじゃないんだなと思う。

ていうかそうだとしたら主人公のことを自分の車に乗せないね。

このことから、彼の完璧主義的って生得的なものではなくて幼少期の経験などから得た後天的なものだったり、何か自分を守る・癒すためのものだったんだろうなあと思った。自分が完璧でとっても良い子だったらもっと両親が自分のそばにいてくれたかもしれないからね。ドラマCDでスリッパとクッションの柄を妥協するシーンがあったはずだけど、臨床の場で言われる「こだわり」を生来持っている人であればこういう行動ができないはずなので。とはいえ、クッションの件は彼の人間的成長が見れるとても良いエピソードだなあと思う。調和・ルールに対するこだわりは生得的なものの可能性があるな、と思ったけどこれは否定できそう。

多分ここまでの設定がつくられている訳ではないと思うけど、自分なりの解釈ができて楽しいね〜

2024/05/01

天気、雨。

有休をとって巨大連休を生成する。

連休前の会話。同僚に、「休み中、どこかいくんですか?」と尋ねられ、「特に予定ないです」と答える。え?特に予定もないのに10連休するんですか?頭おかしいですね。まあ僕もですけど。アハハハハハ!


その宣言通り、ひたすら家にこもってときめきメモリアルGiri’s side1をやる。3の紺野玉緒もかなり好みではあったが、氷室零一の美しさとおもしれー男っぷりにかなりやられてしまい、恐ろしい勢いで過去出版された書籍、CDなどを発掘しては購入するを繰り返している。

私は、冷徹で人間味がないようで、実は感情豊かだったり変人だったり、そういうパーソナリティの人間が大好きだ……。会社でもそういう人に隙を見てはしつこく付きまとってしまう。程度の差はあれ、みんなそうではありませんか?なぜ我々はこういう人に惹かれるのだろう?私の場合の話をする。

私自身は表面上冷徹でも人間味がないわけでもないと思うが、円滑な社会生活という規範や、対人恐怖、トラウマ等のために、本当の感情を表現せず別のものに感情の捌け口を求めるという点ではおれも氷室零一と同じだ……と思わずにはいられない。私は笑いたくもないのに無理に笑ったりするから無表情でいられる人を羨ましく思うし(彼らが感情を表現する術を知らなかったとしても)、蓄積している強い怒りや神経質すぎる悲しみを(これでもかなり)抑えて生きていて、感情が無ければ良いのにとすら思うから、彼らのことを感情を完璧にコントロールしていて美しい、憧れる、と見てしまう。一方で、私は人からずれてる部分があり、人が当然として感じる怒り、悲しみ、喜びに共感できないことがいまでも結構な頻度である。「なにがそんなに嫌なんですか?感情ではなく、論理で説明してほしい」と思ってしまうが、それは社会における態度として相応しくないだろうということを理解しているので、無理した結果ズレた反応をしてしまう。だから、彼らにシンパシーを抱いてしまう。

そうでありながら人間らしい一面があったり、2人だけの秘密と言わんばかりに不安を口にされたり、知らない一面を教えてもらうと、あなたも私のことをそういうふうに感じてくれているということ!?と嬉しさ100倍である。

氷室零一は、それを完全に体現したキャラクターだ……。見た目もすごく好み。彼の趣味やインテリアも完全に私の趣向とかなりかぶる。生い立ちも近い。どうして今まで出会えなかったんだろう。ある意味理想の自分であり、「憧れの人」でもある。憧れの異性ではないのは、恐らく自分の不完全な部分をこの人に対して曝け出すことは出来ないと感じるし幸せにできない・なれないことが自明だからだ。完全さに惹かれた人間は彼のことを幸せに出来ない。彼も自分も傷つける。ただし友達としてお近づきになりたいし、親友としてなら彼のことを幸せにできる気がする。

彼を通して、自分の内面を見ている。不確実耐性の低さゆえの完璧主義や、その完璧主義に苦しめられていること、自分の美意識とは何か。自分の本質はどれか。彼を好きになることで自分のことを認められる部分がある。彼の人間らしさや動揺を見て、自分が動揺したり機械的になれないことを肯定できて、安心できる。緊張と緩和の効果なのか、思わず笑ってしまうし、可愛いとも思う。

もし彼が実在したら私という人間のありのままを許容してくれるだろうか……とかも考える。自分が抑えている完璧主義という名の攻撃性を。でも生きていく上では妥協が必要だよなあ、とか、どうしても妥協できなかったときの話、妥協しすぎて全く賛成していない展開になったときや、妥協できずに人を傷つけてしまっただとか、そういった話がしたい。

おい!ときめきメモリアルGS、人生なのか???????????!???!

ていうか氷室零一側のときめきメモリアルをやりたいよ。私、あなたがどのように物事を考えて感じるのかもっと知りたい……。これは恋か?愛か?執着のような感じもする。

このように狂わされている。


今日は気になってたカフェにいって、英詞って何だろうという唐突な疑問のもとluv(sic)の歌詞を精読し、1人でカラオケ行って、2時間半1人で歌い続けた。幸せだった。歌うことが好きだと実感した。幸せすぎて怖くなった。幸せに慣れていないので、いまだに幸せだという気持ちを感じると同時に恐怖を覚える。

引っ越したり等

少し前に引っ越した。

それまで6年同じところに住んでいて、なかなか居心地が良かったのだが、通勤が快適じゃないこと、角部屋最上階ゆえの断熱の悪さによる体調不良、そもそもこんなに長く住む価値のある街じゃないだろう(近辺に計8年住んだ)ということもあり、引越しを決意した。

新しい街は自然もかなりあるけど文化もあって、酒を飲まなくても入れる飲食店にも巡り会えてかなり救われた気持ちになっている。前の街は仕事が終わってふらっと寄れるカフェとかレストランが全然なかったから、新宿で働いていた時はわざわざ人混みを突っ切って店を探したりしていた。

20代の頃はあまり金銭的な余裕が無かったから休日に出かけることすら抵抗があったし、そもそも電車に乗らないと価値のある何かにアクセスできなかった。けれど今はあまりにも美味いコーヒー屋が坂の上に何軒もあるし、1000円にしては美味すぎるパスタにありつくこともできる。

ようやく東京に住んでいる気がしてきた。


最近、ふとした時に温かい気持ちになるのだが、30年生きてきてそんな思いもしたことがなかったのだが、カウンセリングへの高額投資が功を奏して自分を傷つけなくても生きている実感を得られるようになってきましたか?


今更なのだがときメモGS3にハマっている。15年遅い。Switchに移植されたせいかちょくちょく実況者がプレイしているのがYouTubeに流れてきて、それを見た結果私は紺野玉緒と設楽聖司のエンディングを観るぞという使命を得た。何故かはわからない。多分、1年くらいやっていた大きなPJがひと段落着いたせいだと思う。有り余ったエネルギーを振り向けた先がときメモ。どうなんだろう。買っても1周したら満足するんだろうな、と思い先送りしていたが、紺野先輩に出会いたいという気持ちが購入ボタンを押させた。

感想、くるしい。面白い。

あー、高校生に戻ってこういう真面目で奥手な先輩を振り回す人生であってくれ。服だけもう少しおしゃれであってくれ。でも、こういう先輩が自分を幸せにしてくれるわけでは無いこともなんとなくわかるのだ。設楽と過ごす日々の方が楽しいに決まっている。ときメモを通して、私は自分の人間観を知り、人生に気づいている。

学生時代に放課後教室の後ろでデュフデュフ言っている腐女子を本当に気色悪いと思っており、そもそも興味がなくて、アニメマンガ辺りって一切捨ててたコンテンツだけど、とりあえずやってみると人生面白いね。とりあえず流行ってるものには全部手出しておけば良かったんだな。まあ他の乙女ゲーやりたいか?って言われたら別にわざわざやろうと思わないし3次元の男性アイドルコンテンツも全然惹かれないけど……

おそらくあと2週間後には飽きている熱しやすく冷めやすい人間なのだが、熱されている間に同人誌まで買ってしまった。


このせいか、15年前、何をしていたかなあと思い昔聞いていた音楽を改めて聞いてみたりしている。異常にリスニング力が発達したためRADWIMPSの英詞の理解度も異常に上がっていた。Syrup16gの正常は今でも染みるし、ラルクの1番好きな曲はAll Deadな気がするけど春にSnow dropを聴くと幸せな気持ちになる。

あまり今と変わっていない気がする。でもこのギターソロはださいなとかこの展開は嫌だなとかより狭量になっていた。

改めて気付いたのは詞が良いと思えないと私は音楽を聴けなくて、あまりしっくり来るものがないから最近はインストや洋楽ばかり聴いているんじゃないかという気がしている(でも、英語が聞けるようになってきたので歌詞で引いて脱落することが増えた)

歌メロが美しくないと嫌だし、ベースがうねってい欲しい。だから音楽好きといいながら好きなミュージシャンは少ない。

今も昔も好きになった曲ばかり延々と聴くんだけどここ2年くらい狂ったように聴いている曲を聴いて。

D.A.Nの書く曲と詞が本当に好きだ。仄暗くて、水面の揺らぎと煌めきを感じる。苦しくてやりきれない気持ちがエンボス加工のように浮かび上がらされているというか。

ストレートだけど婉曲的で美しい。

こういうテーマのものが好きなのかもしれない。

2024/01/28

自分のことしか考えていない人間がいることは知っていたが、その上で一切の良心がない人間がいる、ということはあまり知らなかった。

今まで自分はそういう人に対して鈍かったかもしれない。人には多少なりとも良心があり、そうでない人間は何かしらトラウマを抱えており、適切な対処で生まれ変わるだろうと思い込んでいた。が、どうやらそうではないケースがあるようだ。学生時代に人間関係を大事にしてこなかった弊害だ。

職場でとてもとても良くしてくれた人が、そのような人間の餌食となり、職場を去ることになってしまった。衝撃だった。よくよく見渡すと、大なり小なり其奴の餌食になっている人間がちらほら居るではないか。

いつからこうだったのだろうか。いや、最初からこうだったかもしれない。私だって多少罪悪感を感じさせられたり不安な気持ちにさせられたりしていた。あまりに不思議なことがいろいろ続いていたが、あれは仕組まれていたのか、ということもわかった。でも恐らくこの1年だ。1年前からいろいろな事がおかしくなってしまった。

ただただ、トラウマもなく自分の欲を満たしたいと言うだけで他人を翻弄したい人がいる、信じ難かったが、信じざるを得ない。サイコパスともまた違う。ここまでに2ヶ月かかった。

問題がないところに信頼関係がない、問題だらけだと騒ぎ、たくさんのものを壊したり関係性を悪くしようとしている人がいる。

私は幸いにも大した被害にも合わず、どうやらこうすれば攻撃を避けたりすることが出来るらしい、ということがわかってきた。しかし、いつターゲットになるかわからない。自分が実力を発揮すればするほど、出る杭は打たれる。

同僚との話題が対処するか異動するかばかりになってしまった。実際、色々な人が脱出しようとしている。

自分のチームは楽しいし、給与もまあまあだが、やりがいがものすごい勢いで削られていっている。

まだやりたいこともあるし、チームメイトも守りたいが自分のことを考えると辞めた方が良いのかもしれない。こういう環境で無理をしてダメになってしまったのが前の職場だ。それに、チームメイトを守るスキルはないしそもそも私の事を守る人は居ない。まあこれはこれで人間として成長するかもしれないが、目立たないように仕事していて仕事のスキルが付くのかはわからない。

しばらく転職するつもりはなかったのだが……