2026/01/25 普通に病気だった

体調や精神の状態が悪いのは普通に甲状腺の病気だった。うつ病か何かになってしまったと思っていたが。

汗をあまりかかない私が、冬の電車でびしゃびしゃに汗をかき、夜は心臓がバクバクして寝れず、安静時心拍数が以前から20〜30ほど上がり、動悸や脈が飛んだりするようになった。

あまりにも寝れず、もう限界だと、心療内科を含めて3軒くらいあらゆる医者を周り、甲状腺から異常にホルモンが出まくっていることがわかった。通常の約3倍くらい。ついでに心療内科で「発達障害の可能性もあるね」と言われたりもした。

そして、薬を飲み始めたら心拍数が下がり始め、初めてこの冬を絶対的に「寒い」と感じ、身体が縮こまるのを感じた。医学、ありがたい。

夜の心拍数や体温はまだ高いし、身体は限界だが、今日は寝れると嬉しい。


通い始めた病院は比較的新しい病院で、医師も機器に慣れておらず常になんとなくあたふたしている。隣の薬局では薬剤師がお金をもらい忘れ、帰りのバスでは乗客がボタンを押し忘れたせいで急に降ります!と慌ててこけていた。しかもそれが2人もいた。ホルモンが出過ぎているので、理不尽にイライラした。なんだか、世界が一日中ぼんやりしていた。

2026/01/18

夏から新しい会社で働き始めて数ヶ月経った。

このままだと仕事が好きで楽しんでいる自分ではなくなる、と思い前の会社は辞めたが、もう遅かったようで、完全に燃え尽き症候群を引きずってしまっている。

まあ正直新しい会社は合っていない。社風が。前の会社が合いすぎていたというのもあるけど(変質してしまったが)。入社してすぐ、感覚的に合わないところに来てしまった、と感じ、それで今までのように情熱を持って好きなように働くというよりも、仕事だと割り切って、淡々とやろう、思ってしまった。社風もあるし、燃え尽き症候群になっているので、会社のために顧客のために世の中の為に、期待を超えて働こうという気持ちが一切無くなった。他人が経営している会社だし。好きで楽しくやっていても、頑張って成果を出しても、私という人間にフィードバックを与えるよりも、利用してやろうという気持ちの人間がたくさん居ること感じてしまい、それで傷付くのも嫌だなと。私が頑張るから周りが甘えるんだと思ったら、やるべきことを淡々とやって帰るのが会社のためなんだなとしか思えなくなった。

そういう気持ちなので、10年働いてきて、初めてくらいに仕事が嫌で仕方なくなって、日曜の夜は寝付けなくなってしまった。多分世間的にはこういう感情が普通なんだろうけど、そうじゃなかったから喪失感が強かった。

仕事を淡々としなければ楽しいのかもしれないし、残業も厭わずに何かを作り続ければ、そういう気持ちで無くなるのかもしれない。が、もう嫌、そんなに頑張りたくない、と思う。夢中になれない。やや抑うつなのかもしれない。スキルを付ければ、生き残ることができるし、良いものが作れるようになって、誰かに喜んでもらえる、とか思って頑張ろうと思っていたが、なんかもうそういうのもどうでもいい。くだらない。どうせ顧客がありがとうと言うことはない。それなら右往左往する外国人に道を教えたり、六本木の駅階段でベビーカーを上まで持って行ってあげるほうがよっぽど感謝されるし、仕事で感謝されようという気持ちがまるで無くなった。

どうせ何をしていても辛いし苦しいんだなと3社行ってよくわかった。問題のない組織はないし、顧客はバカでうるさいし、チームメイトや上司は自分のことしか考えていない。非合理的で、理不尽で、過剰にサービスをしたかと思えば、手抜きとしか思えないその場しのぎの設計やオペレーションを作る。自分も、どういう職種をやっていても面白い仕事もあるし嫌いでしかないものもある。面白い仕事が嫌な時さえある。まあ、だからどれだけ頑張らずに楽にやれるか、勝手に仕事が進むようになるか考えなきゃいけないなと思った。自動的に会社に行って自動的に手が動いて自動的に退勤できるか。それを考えるのは面白いけど、企画開発職ってそれで上手く行くのかわからない。会社の人間関係にも期待せず、外のコミュニティで楽しく過ごす。もう、それでいい。通勤中に揺れる木々を見てそれで幸せだと思いましょう。

本当は、1年くらい無職をやって、その後の人生を考え直したい気持ちもある。頑張りたいと全く思えないから。
どうせ無職をやってもぼんやり過ごすだけで、何も得るものがないむしろ焦りしかないんだろうと思うので、仕方なく働いているし、やりたいことがこれといってあるわけでもない。母親も爺さんも働かないということに関しては才能を発揮していたので、無職になって輝ける自信も結構あるものの。

転職先を決めるとき、ピンと来ないけどやってみたいことや、機会やスキルを考えると、ここしかないなと半ば消去法的に決めて、というか行きたかった会社は落ちた、今回の転職はチャレンジだから失敗してもまあ良いやと思ったんだけど、60点くらいだったかな。ある意味仮説通りで、勉強になった。 

仕事は勉強になっているし新しい経験もできている。全くアウトプットができていないわけでもない。今は嫌で嫌で仕方ないが。どうせ嫌なのは今だけであと1年もしたら面白くなっているかもしれないし、無能判定を受けて辞めているかもしれないけど、10年働いてようやく経験や続けることの重みを理解したから、とにかく最低レベルでもいいし無能と思われても良いからとにかく続けようと思っている。今のところは。1日1つでも気付きがあって1円でも売り上げを作れたら一旦良いことにする。

今まではとにかく過剰適応の気があって、苦痛や存在価値の不安をアドレナリンで誤魔化していたのだけど、それができなくなってしまったので、こうするしかない。

このまま潰れてぼろ雑巾みたいになる人生も面白いのかもしれない。 

2025/7/12

田舎に帰った衝撃から抜け出せず、初の週末、やっと夫とゆっくり話すことができて心の整理がついた。

ショックだったんだなー。自分を大切にしてくれた人が自分を大切にできてないのが。自分が思ってたよりもショックだった。これが私の弱さだけど、放っておけない。それと同時に自分との類似性を見出したいから心の中を覗きたいとか、この後の物語を教えてくれという感情もある。余計気になる。昔みたいに従兄弟に甘えたいが今この人に全力出して甘えられないなというか、ある程度ビジネス的に接待されているという感じもあり。でも昔の優しさは確実にあって、逆に辛くなった。

思わず昨日電話して言いたいことを色々話して、ついでに言えなかった「偶然とはいえ何時もしんどいときに連絡くれたのが支えになってたんだよね、ありがとう」と言うのが伝えられてだいぶ気も楽になった。それを伝えたら向こうも少し泣いていたような気がする。

このせいでかなり体調が悪かったがようやく、平常モードに戻ってきた。寝れないし腹も壊していた。

そして明後日から新しい職場だ。これはこれで別種のストレス。たまに夕焼けを見れたり丘から街を見下ろせたら写真を撮って従兄弟に送って勝手に安全基地ぶろうとは思う。実際自分はそれでうっすら救われてたし、1年に1回くらい思い出して彼なら分かってくれるんじゃないかと思っていたんだよね。

2025/7/7 田舎に帰った

かれこれ20年ぶりに田舎へ行った。

きっかけは、叔母Aが体調を崩し、年齢も年齢なので(最後かもしれないから)顔が見たいらしいと母親経由で連絡が来たことだ。

かなり長いこと、母と親戚、または親戚の間での小競り合いのようなものがあり、子供ながらに田舎の因習やいざこざにうんざりしてしまい、自分はもう天涯孤独孤立無援で良いので静かに過ごしたいと思い、20年間ほとんど音信不通を貫き通した。気がついたら母と喧嘩していた叔母Bとは仲直りしていたのだが。

叔母Aは私が幼い頃に長いこと面倒を見てもらっていた時期があったので、このまま会えずに死ぬというと後悔もあるだろうと思い、20年という月日や人間関係の複雑さがかなり億劫であったが行くことに決めた。ついでに、自分が一時期育った離島にも。どういう場所で自分が育ったか、どう感じていたかを夫に共有したいと思った。ちょうど自分は仕事を辞めて暇な時期で、尚且つ金銭的にも余裕が出てきた時期だったことも後押しした。

私が来るらしい、となった瞬間にずっと年上のいとこ達が「迎えに行くよー」とか「泊まるところ割引あるからねー」などと連絡をくれて、会ったら泣いたり目を潤ませて迎えてくれて、自分はこの人たちに可愛がられていたから地獄のような家庭でもなんとか生きて来れたんだなと思った。

夫と「基地があるってこういうことかー」などと沖縄の歴史に思いを馳せたりしながら叔母の見舞いに行き、存外元気で回復もしていることに安心しつつ、皺や髪の毛に20年の歴史を感じ、辛くなりその日はぐるぐる考えてしまい寝ることができなかった。私に気を遣って、いとこや叔母は踏み込んだ話をして来なかったが、漏れ聞こえる言葉たちにみんな色々あったんだなと思わされた。自分は育ててもらった恩があるので、私も色々あったけどねというのは見せずに、元気に伸び伸び育ってきたよありがとうねーという振りをした。

観光をしたりしながら、離島へ。これがなかなかに文化人類学だった。しんどかった。
着いた瞬間に寺に行くよーと叔母Bに連れて行かれて、生まれる前に死んだ祖母らの写真に手を合わさせられ、「帰ってきたよーとか子供に恵まれますようにーとか祈りなさい」と言われて「ははは」と湿度0%の笑いが出た。「お陰様で子供が欲しいとは全く思わないのでやめてくださいね」と心の中で呟いた。夫はその間「これ以上うちの妻に関わらないでくれ」と祈っていたらしい。

叔母Bは数日間一緒に過ごすことになり、しばしば説教をされ、同じ話を3周も4周もし、1回なら耐えられる「親子なんだから母親を大事にしなさい」などの話を何度も喰らわされ、強い日差し、塩分を含んだ高い湿度の風と共に心の体力を削られた。実の親よりも寛容で、言い分も納得できることも色々あり、話も思ったより通じて安心したが、この人は「呪い」を再生産しているなー、と思った。日本の非都市部は大体こんな感じなんだろうけど。
このせいか、初日終わった後手が蕁麻疹だらけになり、「お、田舎アレルギー」と思った。
これを4日間繰り返すこととする。

その間に、従兄弟に会った。
私はこの従兄弟がめちゃめちゃ大好きでものすごく懐いている。もう一人懐いていた従兄弟がいるが、別ベクトルで好きすぎる。
子供の頃、私がまだ本州にいた頃にうちに来て遊んでくれたり、もう少し成長して私が離島に引っ越した後も偶然私が不安定な時に遠い土地から連絡をしてきて、一緒に遊ぼうねーと言ってくれたり、大人になってからも唯一私にコンタクトを取ろうとしてくれて、頻繁に会えたりしないけど何故かここぞという時に連絡をくれる人だった。向こうも、人生の起伏が激しい人で、どこか弱さが見え隠れする人だったから、気の強い人が多い親戚の中で自分も弱さを見せて安心できるほとんど唯一の人だったんだなと思う。元々別の場所にいたが、ここ10年くらいで島に帰ってきていたらしい。

島に来る前から、何となくそんな気がしていたが、その従兄弟が色々大変だった。家庭の辛さから逃避するためにお酒をたくさん飲んで、仕事でこういうのがあってさ、俺は間違っていないのに、と上司と衝突して辞めて、というのを繰り返してきてさ、という話をずっとしていた。とにかく話を聞いて欲しいんだという感じだった。成績は上げられるのに人に正面からぶつかって、正義感が強くて職務怠慢が許せなくて、おいおい遺伝か?家庭がそうさせるのか?この気質はよ、とうんざりした。キッホルの紋章が浮かんで見えた。

叔母の家から宿まで送るよ、と従兄弟と夫と私で夜道を歩きながら、「これまだ誰にも言ってないんだけどー」とうお……というパンチのある話を聞いたりした。この人は私がすでに通り過ぎた道でうずくまって苦しんでいる、とも感じた。しかも何年もずっとそこでぐるぐるしていて、こんな町に居るせいで誰にも救えないしより彼を追い詰めている。傷口に塩を塗るのが正しい傷の治療です!みたいなことをずっとやっている。クソみたいな場所だと思った。そして、また、似たような仕事をしている私と夫なら「俺の話わかってくれるよね?」といった感じではしゃいでペラペラ喋って、強い缶チューハイを3缶くらい飲み、帰り道にコンビニに入ってさらにストゼロを買って「実はこれ、今日10缶目なんだよね」と言って私を恐怖させた。

それでも暴れるわけでもなく、無邪気に笑ったり、色々な思いから泣く私の頭を黙って撫でてくれたりして、この人は心底優しすぎるしどれだけ苦しいんだろうと思ってまた泣いた。思わず何度も抱きしめたり手を握ったりしたが何年も辛かったねという気持ちとこの呪いを振り払いたいという気持ちと何度も救ってくれてありがとうという気持ちと大好きだから自分をもう傷つけないでくれ、死なないでくれ、という祈りを込めた。祖母の遺影にはそれを願えばよかったのかもしれない。それでも足りなかった。ふと居なくなってしまいそうでもっと側にいてくれと願った。この人を飲み込まれずに支えるにはどうすれば良いかな、と思って定期的に電話することにした。飛行機の中から私は味方だよ、と大袈裟かもしれないLINEを送った。人を救うことは私には出来ないし、ダメな時はダメなんだろうけど、無条件に彼を肯定できる存在でありたいと思った。

そういう呪いのデパートを眺めて、総じて私はこの島にずっといなくて良かったなと思った。居たらとっくに自殺している。確実に速やかに。だけど思ったよりも地獄ではなかった。思ったよりは。もっと話が通じないと思っていたので。まあ、発信もしなかったけど。人間には適切な距離があり、分かり合えないことがあるし、家族でも無理なら離れるしかないし、この20年のいざこざは起こるべくして起こったなとも思った。

今回の旅の曲。

2025/06/23 待つこと

「これは待てるということなのか!」と言葉でその感覚を捉えることができるようになったのは一昨日くらい。最近、ふつふつと、実感として「待つ」という行為ができるようになってきた。状況の変化、何かが良くなるだろうと期待して待てるようになった。

元々それが全く出来ないわけではなかったはずだが、割とすぐに「あ、これは才能ないな」「見込みが無いな」と諦めてしまうような人間で、部活とか仕事の強制力があって初めて何かを身に付けることができた。そうだとしても諦めることはあった。そういえば電車を待つのも嫌だった。

ピアノだったり英語だったり、プログラミングだったり、この10年は別に自分に特別才能があるわけでは無いことをやったりやらされたり、今月はなにも改善しなかったなあ、才能ないなあと思いながら、ある日突然何かができるようになることを繰り返すうちに、コツコツやってれば何事も終わりがくるし何かしら端緒を掴めるようになる、ということが分かってきた。(あと、良い先生を見つけてその人に習うのも大事。良い先生の条件にも待てる能力が要るなと思う)

積み重ねるうちに自信ができて、脳ってそんなにバカじゃないから繰り返していれば覚えたりすんだなーという理解もあるし、そのせいなのか加齢なのか純粋に繰り返すことや待つことに苦痛を覚えなくなった。

あと、自分の中に「自分を急かす何か」が居て、それを意識的に追い出すことを最近はやっている。その正体はよくわからないけど、効率的に物事をやれという価値観だったり、とろいのは恥ずべきことだという考えだったりする。それもどこで身に付けたかわからないけど、確実に7歳頃には存在していたと思う。のんびりしてたら置いていかれてしまう、という恐怖を感じていた。自転車になかなか乗れるようにならない、漢字の模写の時間で人より5ページ分くらい遅い、算数の問題だけ解くのが速くてそれは褒められる…などの経験。

そういうわけで、急かす自分は常に何かを学ぶ時に効率よく、ショートカットを使いまくって見た目上の点数を上手く見せていたけど、とくにここ数年の仕事でそれあんまり良くないなーと思った。コツコツやった方がいいな、とか。コツコツできないのも恐怖故なんだけど、途中でせかせかせずに取り組もうと思った時に、急いでも別に効率上がらないし意味ないし、むしろ効率下がったり効率を上げるための作業もおざなりになるし、コツコツやった方が充足感あるなー、と気付いたのだった。次第に急かす自分は鳴りを潜め始めている。

こういうことを「待つ」と表現したのは春日武彦の「待つ力」という本の影響だと思われる。ふと、昔読んだこの本を思い出して「これ、待つ力じゃん!」と自分で定義できたのだった。

「待つ力」を読み返してて思った。最近は待つことでイライラする、そわそわするほどのエネルギーが無い。待った方が楽、という感じかも。それが経験則として分かったのもあるし、加齢もあるんだろうなー。あとは過程が楽しめるようにもなってきて。

こうやって見ると自分がいかにまともな人間になってきているのかを実感する。