報道は弔いになるのか

経済学を学んだ身としては「バスの規制緩和でこんなに人が死んだ!」というコメンテーターたちの言葉に疑問符を投げつけたいところであるがそれはまたの機会にしたい。

インターネット上では件のバス事故での、犠牲者に関する報道に対する賛否、主に否定意見が飛び交っていて、私もなんだか腑に落ちない感じを持って報道を見ている。

どうなんだろうね、みたいな話を母親にしてみたら
「これがこの子たちへの弔いになるのよ」
と言われた。

そうなのか。

私が犠牲者だったらどうだろう。
うわー私がめっちゃテレビ出てる!
って思うだろうな。
でもFacebookとかツイッターでの発言をいちいち取り上げて「こんな人でした」とか言われるんだなーって思うと絶対嫌だ。なんて言われるんだろう。真面目でした?それとも人を笑わせるのが好きなチャーミングな一面がありました?本当はゲス川谷をクソほど叩く程度のやつなのに?
恣意的に「私」という人物がメディアの都合の良いように「死ぬのには惜しい人でした」とか作られたら死んでも死にきれない。地縛霊になってお台場や汐留に毎晩のように現れるだろう。

報道を見た家族や友人はどう思うのか、
多くの人に知ってもらえて見送ってもらえるなんてありがたいっていう人も一定数いる気がするし、
「おとなしくて控えめな人だからそっとしてやってほしい」って思う人も絶対居るだろう。
って考えると名前と写真くらいならまだ「弔い」になるのかもしれないけど、プライベートを垂れ流して「こんな人でしたー!!!」ってやるのは、弔いどころか侮辱になる場合があるね。

それはきっとメディアの中の人間もわかっているはずなんだろうけど、プライドが無いのかな。
侮辱なんかよりもっと本当は報道しなきゃいけないことがあるはずなのに。