昨日まで3日間岡山に行っていた。
団体で行ったにも関わらず普通にマイペースに楽しんでしまった。本当に協調性がないな
最近知らない街を見ると「ここに住みたいか」を自分に問うのだけど、岡山は住みたいなと思った。県庁所在地が中核市くらいの規模っていうのがちょうど良い。後楽園は散歩するのにすごく気持ちが良いところだったし、倉敷も良かった。定年後に住もうかな。死んでるかもしれないけど
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帰ってきて今日、大学の後輩二人と会って食事した。うち一人はヨッピーさんの講演会経由で私のことを知ったらしく、学内で急に話掛けられて友達になった。せっかくの出会いなので、ということで飯食ったけど、今まで出会った学生の中でダントツで優秀だった。しかも知識や行動力に人間性が伴っている。
私が大学で出会った優秀(とされている)な「意識高い系」や「優等生」のほとんどは、知識や行動力を持っていても、それらは自分を誇示するためだったり劣等感を隠すための武器にしていた。だから純粋にそれを手にすることが出来た彼に尊敬の念を抱いた。やはり自分の闇や弱さと向き合って戦うことが出来た人間は強い。そこでやっと真に誰かのために動くことが出来るようになるのだろう。休学して世界を放浪しに行くらしいけど無事に帰ってきて欲しい、その暁には叙々苑でその思い出話を聞きたい。
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本当は優しくない人が優しいふりをしているのは良いのだろうか。「ほら私こんなに優しいですよ!」っていう振る舞いをしている人。個人的には良くないと思うし嫌だ。それは嘘つきではないか。だけども嘘でも優しくすることで本人も利益を得る可能性が高いし、多くの人が嬉しい気持ちになる。
でもそういう人の優しくないところはふとした瞬間に見えてしまう。酒の席なんかは特にそういうものがあらわれやすい。自分のことしか考えてないなーとか。そのときのガッカリ感と言ったら。まあそのあと自然にこういう人とは距離を置いて付き合おーってなっていくし、どうせなら優しくない人はもう優しくないよと正直になった方が良いんじゃないか。べつに優しいだけが人の取り柄じゃないし。本当の優しさを手にいれるのは案外難しいなと最近思うし、人のそれを見分けるのは難しい。最近発見した「本当は優しくない人の見分け方」は「自分を大切に出来ていない」こと。
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物質でしか自分を肯定できない生き方はもしかして間違ってないか?
