最近、ふとした瞬間に小さい頃のトラウマを思い出す。
トラウマといっても、自分の中では整理がついていて、とくにパニックを起こすわけでもないし、「あーそういえばそんなことあったなあ……」と思う程度のマイナスな思い出である。
どういうものかというと、
- お絵描きの時間に、みんなは集まって絵を描いているのに自分はその輪に入ることができない
- 鬼ごっこしよーってなっても必ず最初は自分が鬼
- 学童保育で、ポテチの最後の1個を取ったことに対して周りの子供から責められて、全員から絶交だといわれる
割と大人になるまで気づいてなかったんですけど、すげえ暗い幼少期なきがする。
なんというか、いわゆる「THE 一人っ子」という子供だったのである。周りに合わせることもできないし、気を使うとか譲るとか、そういう発想がなかったんだと思う。さらに興味の方向もちょっと変だったり、自己主張がはっきりしているせいでそういった軋轢をちょいちょい生んでいた。もしかしたら子供ってそういうもんだったりするのかもしれないが。
で、そういった「気を使う」「周りに合わせる」「自己主張を控える」みたいな日本社会に適応するためのスキルって、成長に伴って獲得したり、慣れていくもんだと思っていた。
しかし、最近「気を使う」という行為が死ぬほど苦痛だということに気づいてしまった。
23年生きていく中で、「気を使えない」ということで、いじめられたりするなど不利益を被ることが多いと気づいた私は、必死に周りの機嫌を伺って、気を使うようになった。だが、私は本質的には「自己中心的で自分の世界に没頭しがち」な人間であることをさっき思い出した。そんな人間が気を使う、というのはどうやら物凄く疲れるらしい。普段は抑圧したり、苦痛に慣れていたとしても、やはり時々その痛みが顔を出す。そうなると自己中心的な自分が露呈される。
自分が物凄く自己中心的な性格をしているというのは自覚していて、親とかいろんな人からその性格治しなよという指摘を様々な形で頂戴しており、23年間努力しているのだがあいにく治らない。もうこれは「そういうもの」なんじゃないか。人間が酸素を吸って二酸化炭素を吐いているのと同じなのでは。
もしそうなのだとしたら、もう努力するだけ無駄なので気を使うのをやめたいんですよね。
そのエネルギーを別のところに使いたい。
「ここで私が自分の意見をガーっていうと、他の人が主張するチャンス無くなるよなー」とか、そういうの考えるのやめたい。結局自分が損する場面ばっかりだし。
あー、やーめた。
と、最近何度も思うのだが、結局やらない。いつものように薄ら笑いを浮かべて毎日を過ごしている。なんで出来ないかなー、と思うと気を使うのをやめると、昔みたいに仲間はずれにされたり、嫌な思いをするんじゃないか、という恐怖が心の奥底にあるんだなーと、冒頭のトラウマに気づかされた。
このような、「自分は猫を被らないと、社会に溶け込めない」「ありのままでは許されない」みたいな気持ちは至る所で感じているな、と最近気がついて、それがぼんやりとした息苦しさにつながっているように感じた。できることなら気付きたくなかった。
