病的に快楽的な食事

昨日、彼氏が朝食に作ったフレンチトーストがめちゃくちゃまずかった。作ってくれたのにこんなことを言って(しかも全世界に発信して)ごめん、とも思うが、本当にまずかった。「レシピ通りに作った」のに、まずくなるのだから、フレンチトーストというのは繊細で難しい料理なのだと思った。

食後しばらく口の中に不快感が残るという経験は相当久しぶりだなと、早くこの忌まわしい記憶を消したい、といつになく昼食を待ちわびた。昼休みのチャイムが鳴り、小走りでスーパーに向かい、火曜日は私の中でカレーの日なので、日替わりカレーを買って食べたのだが、ああ、こんなにこのカレーってうまかったのか、と物凄く感動したのだった。いや、美味いのは知っているから毎週火曜日はカレーにしているのだけど、その事実をすっかり忘れていた。

帰宅して、フレンチトーストのおかげで昼食が今までにないくらい美味しかった、ということを彼氏に伝えた。それをきっかけに「食」についてずっと話していたのだが、その中で、「**は食に対する愛が無いよ」という指摘をされた。指摘されるとふつうムッとくるものなのだが、これに関しては「ああ、ほんとうにそうだな」とスッと納得できた。なんとなく思いあたる節があるからだ。

私はとにかく食べるのが速い。噛まない。いつのまにか、親にも「ちゃんと噛んで食べなさい」と言われることが習慣づいていた。小6のときに、ふと時計を見ると給食を10分で食べ終わっていることに気づいた。もっと幼いときは、そんなに速くはなかったと思う。

食事が速くなった原因は自分でもわかっている。給食がまずくて、机を向かい合わせて好きでも無いクラスメイトたちと飯を食う、というのが苦痛だった。だから、噛まずに飲むことで一刻も早くこの時間を終わらせる。なるべく現実に向き合わず戦闘時間を短くして身を守る、という私のよくない生き方がここにも反映されている。

加えて、自分は、食事という行為が好きでは無いのだと思う。箸やナイフやフォークを操ることがめんどくさい。噛むのもめんどくさい。今日、「食に対する愛がない」という言葉を反芻しながら、湯葉寄せ豆腐に丁寧にわさびを塗りながら、改めて実感した。

けれども、同時に美味しい食べ物への執着がある。「美味しいもの」を探し、それ以外を口にしようとしない私に周囲はしばしば驚く。その様が病的なのだ。口いっぱいに旨味、塩味、甘み、コク、芳香を充満させたい。なるべく継続して。それがより食事のスピードを上げさせる。

食事が嫌いなのに、美味しいものは食べたい。矛盾しているようにも見える。今日、この話を会社でしたら一切納得されなかった。まあそうだろう。しかし、なるべく食事という行為から「よく噛む」という行為を排除すると、それは食事ではあるが、食事の大部分を構成する要素を失うことになる。食事だが真に食事ではないというか。そうなると、途端に矛盾しなくなるのだ。

つまり、私の食事というのは、苦痛を避けて快楽を得たい、という人間の本能そのままを体現したものに過ぎないのだ。そこに、食文化や愛といったものは一切ない。断言する。

だから、今まで、食べるのが好きだといっていたのは嘘で、脳に「うまいよ」という信号を送りたいだけ、というのが正しい。訂正する。

それで終わり、でもいいのだが、そこに自分の病的に神経質な部分というのがとてもよく現れていて、危機感を感じたのだ。これは遅かれ早かれ身を滅ぼすと。だから、なんとかした方がいい。なんとかする方法を考えている。とりあえず、よく噛もうとは思っている。断食に行きたい、とも思っている。そこに、自分の病を見出したい、とも思っている。