ただ1人でデザインの仕事をし始めて一月半が経過した。
主にデータをひたすら集めて、異常なデータを発見してそこを掘り下げたり、プロダクトを使って、使いにくい点を監査してレポートを日々つくる仕事で、世間一般が想像するデザイナーの仕事とはかけ離れているかもしれない。でも楽しい。調査をして、分析するというのが好きなのだ。そこにある事実からあるべき姿にもっていくにはどうすればいいのか?デザインはそのプロセスだけを言うのではなく、人や事実を知るというのが大事なのだということが身に沁みてわかってきた。デザインとは何か?というのを何も分かっていなかったし、今もわかっていない。でも仕事をしていて、はっとさせられる瞬間に、自分はデザインが大好きだという確信を得ることができる。
そんな訳でエンジニアをしていた頃より満たされた気持ちで仕事ができており、長年悩まされた肋間神経痛も消え去ったわけだが、五里霧中であることには変わりなく、むしろ悩んだり腹が立つ時間は増えた。本を読み、自分の中に漂っていたワラのようなものを言葉にすることで自分の頼りなさを補おうとしている。
私はなにを持って美しいと感じるのか、このデザインや俳句が好きだと思うのか、この2ヶ月くらいずっと考えていた。シンプルであればよいのだろうか?白黒であればよいのだろうか?黄金比や白銀比や数式で説明がつくのだろうか?などと思っていたがそうとは限らなさそうである。「デザインの輪郭」や「塑する思考」を読んでて思ったのは、「自意識」である、ということだった。
「自意識」の気配が嫌いだ。
「かわいいでしょう?」「かっこいいでしょう?」「課金して欲しいな」、といった主張が混ざったものが嫌いなのだ。アートであればそれでいい。デザインに持ち込まれるのが本当に許せないのだ。
学生時代に、絵を描くのが好きだと宣う人間が、何かしらポスターや、文化祭のパンフレットなどを作るのだが、目的に反して「それはお前の趣味だろう」というものを仕上げてくるのがマジで嫌だった。許せなかった。件の献血のポスターも同様の理由で醜いと思っている。日本赤十字社が自身をどういう存在か理解せず目先の利益に走っていることがありありと見えるので。
デザインは課題を解決する手段であり、人に自然に行動を促す何かでなければいけないはずだ。一つ一つのディテールに確固たる理由がなければならない。そこを、自意識で汚されるのが許せない。自己主張をする場所を間違えている。Twitterでやって欲しい。
そんな仕事を目にした時、自分が正気でいられる自信はなく、というかもう既にこんなことなら消えたい、と何度も思っている。何もかも全部を自分に任せてくれ、とも思うがこれっぽっちの技量も余裕もなくてただただジレンマを抱えている。
日々、自分自身もそんな自意識の中に飲み込まれそうになるのも苦しい。自分が、思っていた以上にこだわりが強い。というより、周囲が想像以上にこだわりがない。この落差が激しい。この位置エネルギーで発電ができる。こだわりが強いのは今に始まったことじゃなくて、ずっと子供の頃からこうだったのだ。こだわりの強さから作品が完成しない、目の前の作業が完了しない、自分のこだわりに見合わないので捨てる、壊す、暴れる、みたいなことを繰り返してきた。周りからも足並みが遅れてバカにされたし怒られた。こだわりが強いというのは恥ずかしいことだと思って押し殺していたが、とうとう無視できなくなり、この自分の中の猛犬をうまく飼い慣らして生きていくしかなくなった。そうじゃないと自分もしくは周囲が食い殺されて、全員死んでしまうだろう。デザイナーはどうやって折り合いをつけて生きているのだろう。仕事の仕方やプロセスや技法は1人でも学べるかもしれない。でもこのアウトプットでは嫌だと思った時にどうやって人とうまくやっていけばいいのかわからず、思わず皆殺しにしてしまいそうだ。
