大学4回生の後期に、もう卒業単位取り終わってるし今まで興味なかった授業を受けようと、経済学史の授業を履修することにした。
卒業できるわけだから、別に出たり出なかったりで良かったのだけど、こう、金銭的に無理して大学に入って、一時は大学院進学も考えたくらいだし、という矜恃みたいなものがあった。だから毎回きっちり出席して授業の感想もびっしり書いて、試験も受けた。矜恃以上に、なによりも授業の内容がすごく面白かった。それまで自分の専攻とは違う歴史の授業を受けたことがほとんど無く、シラバスを見てもピンと来なかった。だから、そもそも経済学史って何?と思っていたし、何で受けようと思ったのかもよく覚えていない。けれど、授業が終わる頃にはもっと早く受けていれば良かったとすごく後悔した。
と、まあ絶賛しているんだけど、どんなことを習ったのかが、これが思い出せない。
ただ、1つだけ印象に残っていることがある。「関税を撤廃して輸入を受け入れることが、いくら合理的だったとしても多くの人が失業することを許容すべきなのかが分からない」のような感想を書いて出席カードを出した。これは自分が高校生の時にTPPが盛り上がっている時から疑問に思っていたことだった。大学に入ってマクロ経済学の授業で、関税のない自由貿易というのがいかに良いか、ということを学んで理解したのだが、それでも自分の職を失う人が多く発生するということをどう受け入れればいいのか分からずにいたのだった。
すると、翌週の授業でその感想が取り上げられた。「僕の考えですが、関税があろうと無かろうと技術革新で世界は変わるし、どれだけ抵抗しても産業構造は変わって無くなる仕事はあるし、失業者も出る。それが歴史の中でも繰り返されてきた。でも、必ず代わりに新しい仕事が生まれる。馬の世話をやっていた人たちが自動車産業に従事するようになったり、そういう風に人は移動していったんですよね」と、教授はコメントをした。それに、何となく「ああ、救われた」という気持ちになったのだった。やっと「そういうもんだよな」と思えたからだった。
努力しようがしなかろうが、抗えないものがあって、それで人生が変わってしまう、それだけの力というものが社会には作用していて、自分の仕事が偶然突然その力で押しつぶされたり引き裂かれたりして、消えてしまう。誰もがそんな可能性の中で生きている。人生にはそのような喪失は付きものなんだと歴史が証明している。
いままさに、感染症という力学で色んな会社が倒産したり廃業・失業しました、という人をたくさん見ることになってとても辛いし、自分もそうなるかもしれない、と思っている。歴史から見れば、繰り返されてきた当たり前の光景なのだと思う。だから、それに対して自己責任だ、と言っている人間ども脳天を私はブチ抜いてやりたい。その人がどうだろうと、こういう状況に陥るのだと。自己責任論を振りかざす人も自分は違うと思いたい怖がりさんなんだと思うが。自己責任という言葉に対しては色々言いたいことがあるけどいろんな人が言い尽くしているしもう言わない。
なので、行政はセーフティーネットをしっかり張るべきだと思っているし、誰もが迅速にアクセス出来るような仕組みを作るべきだと思っている。そうなっていないとしたら声を上げて怒るべきだと思う。税金を払っているのに、ありうる災害から最低限の文化的生活を守ってくれない、関心や理解の無い人々、それを良しとしている人間がいる事が本当に許せなくてTwitterに何度も死ね!と書いては消している。
