「これは待てるということなのか!」と言葉でその感覚を捉えることができるようになったのは一昨日くらい。最近、ふつふつと、実感として「待つ」という行為ができるようになってきた。状況の変化、何かが良くなるだろうと期待して待てるようになった。
元々それが全く出来ないわけではなかったはずだが、割とすぐに「あ、これは才能ないな」「見込みが無いな」と諦めてしまうような人間で、部活とか仕事の強制力があって初めて何かを身に付けることができた。そうだとしても諦めることはあった。そういえば電車を待つのも嫌だった。
ピアノだったり英語だったり、プログラミングだったり、この10年は別に自分に特別才能があるわけでは無いことをやったりやらされたり、今月はなにも改善しなかったなあ、才能ないなあと思いながら、ある日突然何かができるようになることを繰り返すうちに、コツコツやってれば何事も終わりがくるし何かしら端緒を掴めるようになる、ということが分かってきた。(あと、良い先生を見つけてその人に習うのも大事。良い先生の条件にも待てる能力が要るなと思う)
積み重ねるうちに自信ができて、脳ってそんなにバカじゃないから繰り返していれば覚えたりすんだなーという理解もあるし、そのせいなのか加齢なのか純粋に繰り返すことや待つことに苦痛を覚えなくなった。
あと、自分の中に「自分を急かす何か」が居て、それを意識的に追い出すことを最近はやっている。その正体はよくわからないけど、効率的に物事をやれという価値観だったり、とろいのは恥ずべきことだという考えだったりする。それもどこで身に付けたかわからないけど、確実に7歳頃には存在していたと思う。のんびりしてたら置いていかれてしまう、という恐怖を感じていた。自転車になかなか乗れるようにならない、漢字の模写の時間で人より5ページ分くらい遅い、算数の問題だけ解くのが速くてそれは褒められる…などの経験。
そういうわけで、急かす自分は常に何かを学ぶ時に効率よく、ショートカットを使いまくって見た目上の点数を上手く見せていたけど、とくにここ数年の仕事でそれあんまり良くないなーと思った。コツコツやった方がいいな、とか。コツコツできないのも恐怖故なんだけど、途中でせかせかせずに取り組もうと思った時に、急いでも別に効率上がらないし意味ないし、むしろ効率下がったり効率を上げるための作業もおざなりになるし、コツコツやった方が充足感あるなー、と気付いたのだった。次第に急かす自分は鳴りを潜め始めている。
こういうことを「待つ」と表現したのは春日武彦の「待つ力」という本の影響だと思われる。ふと、昔読んだこの本を思い出して「これ、待つ力じゃん!」と自分で定義できたのだった。
「待つ力」を読み返してて思った。最近は待つことでイライラする、そわそわするほどのエネルギーが無い。待った方が楽、という感じかも。それが経験則として分かったのもあるし、加齢もあるんだろうなー。あとは過程が楽しめるようにもなってきて。
こうやって見ると自分がいかにまともな人間になってきているのかを実感する。
