久々にドキドキした


凛として時雨 | DIE meets HARD(初回限定版)

いつもの如く即買いました。
ソロじゃなくて時雨の新曲って2年ぶりくらいなんじゃないか。長かった。
なのにタイアップで何だかいつもの時雨じゃないなーっていうのでちょっとザワザワした。まあこれはこれでネタとしてありかーって感じだったんだけどもうカップリングのI’m machineが良すぎた。時雨でありながら聞きやすいしちゃんと進化している。

ソロをがっつりやる前はもっと歌詞がもっと曖昧で幻想的な言葉で構成されていたと思うんだけど、ソロを経てストレートな言葉が盛り込まれるようになってきたように思う。
昔はこの曲どういう情景なんだろう、と思うことが多かったけど、この曲に至っては映像が見える。TKの意図はTKにしかわからないけどこれを聴いて見える映像はみんなだいたい一緒じゃないのかな。「感情性のレイテンシーに切り裂かれた音を聴いて」という言葉よりも「僕は機械のような冷たい眼差しで君を抱きしめてしまった」の方が解釈の余地が少ない。今改めてこんな曲が出てくるのかと驚いている。

正直、SOSOSがアルバムとしてそんなに好きじゃなくて、当時精神的に死んでたのもあるけど、こんな感想を抱くことがあるのか、もう時雨でドキドキすることって無いのかもしれない、と思っていたけど全然そんなこと無かった。やっぱり自分の中で時雨の上をいくバンドは無いと思う。
 

凛として時雨 | DIE meets HARD(初回限定版)

牛乳石鹸のCMから意図を読み取ろう

昨日くらいにTwitterで騒がれ始めて私もちらっと見たんだけど、全然何が言いたいのかさっぱりわからんかった。え?え?って思った。ボロクソに言ってる人もいたけど私は別に「ふざけんな!」とは思わなかった。何を言いたいんだ、それだけ・・・。
でもインターネットには意図をくみ取ってる人がけっこういるぞ。
もっかいちゃんと見ようかな。はい見ました。これはCMの意図わかったかもしれない。
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おれ家事とかもやるけど、現状もやもやするわ〜

 

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ケーキもプレゼントも買った。真っ直ぐ家に帰って時代が良しとする父親に・・・

 

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と思ったけどこれでええんかな

 

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ちょっと引き返して後輩と飲みに行って前時代的な父親を演じてみます?っていう欲が出た

 

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妻に怒られた

 

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おれはなにやってんだって思ったから風呂入るわ

 

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親父はいろんなもの与えてくれたけどおれは・・・

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牛乳石鹸でしょうもない気持ち洗い流したらやっぱり子供に与えることのできる父親になろうと思いましたごめんごめん

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心なしか0:29頃より気持ちも晴れやかです!

 

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あー!!はいはい、それは洗い流そやわ。はい完全な理解。

いやいや難しいでしょ。新井浩文のクセがすごい。最初と最後の表情の変化絶妙かいな。

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こうして並べると比較的わかりやすいですね。画面の明るさも違う。

これ、ドンピシャくる人もいるんだろうなと思った。子供もいないし結婚もしてない私(女)にはぱっと見て理解できなかった。そりゃ炎上もするでしょうね。よくこんな繊細なテーマを、企業のCMで描こうと思ったな。度胸がすごい。最初は「ストーリーもわからん、やった意味もわからん」だったのが、「やった意味わからん」に集約できました。

でもこの広告はなんで女性が笑顔なのかわからない。隣のセリフとのギャップはなんなんだ・・・そういう心理学的な効果があるとか・・・?

あまりにも困惑して、牛乳石鹸のサイトとかいろいろ見たら、気持ちがぐちゃぐちゃな人、理想と現実に悩んでいる・悩んでた人をターゲットにしてるのかな?と思えた。笑顔=理想の姿、セリフ=現実、的な??
自分が今そうだからそう見えたのかもしれませんが。なので牛乳石鹸使いたくなる気持ちわかる、と思った。でも世の中は私みたいにものわかりがよすぎる人ばかりじゃ無いので、これから頑張ってくれよ!と思った。

昔は音楽は速ければ速いほどいいと思っていた

なので、イントロですぐさま聴くかどうかを決めていた。バラード本当に退屈で嫌いだった。まあ今でもそんなに好きじゃ無いけど
絶対に昔だったらラルクの夏の憂鬱とか好きになってないと思う。今聴いたら良い曲すぎてちょっとホロリときた。
むしろ今は激しい曲聴くと疲れてしまう。は〜しんど って

にしてもhydeの美形っぷりやら人を惹きつける感じすごい。エンターテイナーだ。自分の顔にコピーアンドペーストしたいですね


 

席の隣が関西出身の後輩になったのだが、音楽が好きということで、毎日1バンド紹介させている。パワハラなのでは?と思ったけど向こうから言い出したからセーフですかね。年下とのコミュニケーション能力が異常に低いので共通の話題があると助かる。


久々にある同期とすれ違ったら「うわ!髪明る!輩だ!」と言われた。
輩か〜


API連携ができる体重計があるらしいというのを見て、API叩きたい!って思った。
家事とか書類とか処理し忘れるな〜、そうだ、JIRAをサーバーに立てよう。
だいぶ思考がエンジニアっぽくなってきたんじゃないか?

あれから2年

ちょうど2年くらい前に強迫観念と強迫行為に追われるという形で気が狂ってしまったのですが、なんとか再び発狂せずに休職とかもせずに生きていれるのでよかったなと思いました。
厳密には自分には3歳ごろからそういう意味で発狂気味だったので、初めて自分の性質に気づいたのが2年前というだけだと思う。

もう当時は絶望しきっていて、「一生この感じでいつ発狂してしまうかわからない自分を怖がりながら生きていくのかな…」と思ったんですが、波はありつつもだいぶ落ち着いて暮らせるようになったので良かった。まだ強迫観念は出るけどコントロールできるようになってきたし、パニックレベルもかなり下がってきた。またこの状態から悪化することもあるんだろうけど、自分がそういう仕組みだということがわかっているので、がんばってやり過ごしていく。

でもなんというか、まだまだ自分の神経症傾向は変わってないなあと思っていて、相変わらずいろんなものが怖くて外に出るのも疲れる。めちゃくちゃ注意して生きるか脇目も振らず猛ダッシュして生きていくかの2択しかない。この傾向を打破したいんだけど23年それで生きてきてるので難しい。その気になれば打破できるんだろうけど、どういった形で打破していくのかまだわからない。でも多分心を他人に開くとか毎日家事を欠かさないとかそういうところなんだろうな。自分の安全地帯を作って出ないので、こういう性格なんだと思う。いまは病気なんかよりこのビクビクおどおどとしている性格がつらい。

あとそういう自分の性格を分析したり自意識が過剰も過剰になったせいで、自分の本質が全くわからない。すごく純粋な気もするし、汚れきっている気もする。素直な気もするしめちゃくちゃひねくれている気もする。自分に自信がないけど、自己評価が高い気もしてくる。すごく人の気持ちに敏感な一面もあるけど、うっかりめちゃくちゃデリカシーのないことを言ってしまう。「いやあ、怒って当然です・・・」と思う反面、「それくらいで傷ついてんじゃね〜めんどくせ〜」と思う。
今は自分のことを怖がりで素直で自分が大好きで自己評価が高くてデリカシーが無い雑な人間だと思っているけど明日には変わっているかもしれない。ひねくれたことをいうのは、素直だとバカにされるからで、自分に自信がなくなってしまったのは色んな出来事と、自己評価が高いと潰されるからで、デリカシーが無いのはそういう人たちに囲まれて暮らしてきたからだけど、それだと反感を買ってしまったので必要以上に繊細になってしまった。

みたいなことをつらつら書いてるとやっぱり自分の生きてきた環境は異常なことが多かったなと思うけど、そういう経験が活かせたまま生きていけたらいいのにと思う。今の環境だと難しい。どこでも難しいんだろうけど

日記

3日間じっとしていたら暗い気持ちになってきた。早く会社に行きたい。
こう気持ちがどんよりしたり、むしゃくしゃした時に無闇やたらに発散しようとせずに「あー、気持ちがどんよりしているなあ」とか「まあ3日もだらだらしてたらそうなるよな」と思えるようになったのは成長したなと思う。

最近は暑いし、平日の出費が多くて休みの日にどっかに出かけようという気持ちにもなれない。勉強はなんだか捗らない。根本的に何もしたくない。主体性とか意思とかがどんどん死んでいるような気がする。それとは反比例して仕事が楽しくなっている。無関係じゃ無いとすれば怖い。

東京に来てからより雑談が苦手になった気がする。でも、関西弁だと言葉が流暢に出てくる気がする。ちょっと踏み込んだ発言もできる。これは関西弁の力なんだろうか。英語だとはっきりと発言ができる、みたいな人って多いらしいし。関西弁だとちょっとフレンドリーに話せるのかもしれない。標準語だと無意識に壁を作ってしまう。それとも関西弁で喋れるくらいの人は心を許しているということなのか?
関西の外で関西弁で捲くし立てるのはどうなんだろう、と思っていたけどちょっとそういう人の気持ちや無意識理解できたかもしれない。

 

意識高いとか言われてもどうやったら日本がよくなるのかとか、みんな幸せに生きれるのかとか大学で討論していたの、無意味だったけどやっぱり楽しかったと今振り返ると思う
自分が苦しいのは、社会のせいじゃなくて自分のせいなんじゃ無いかって思ってた部分もあったけど、やっぱり社会がよくなればもっと私も周りも心の余裕とか持てて生きやすかったなという部分は確実にあって、
自分が真に燃えるのはそういうことなんだなあと思うので、どうしたら日常的にそういったことに取り組めるかを考えている。

英語勉強したい、今の仕事ももっとできるようになりたい、社会政策に触れていたい、痩せたい、ギターを弾きたい、お金を貯めたい、引っ越したい、穏やかで健康な毎日を送りたい、叶えたいことがたくさんあって大変だ。もっと毎日頑張りたいけど、何もしないことで自分を守っていた人生をすぐに切り替えるのは難しい。脳は変わりたく無いと言っている