面倒くさい人間であり続けるのかもしれない

酒タバコが本当に嫌い、・・・と書き出したところで何度も何度も同じようなテーマでブログを書いている気がした。でもまた書くことにした。これは納得がいくまでずっと書き続けるのだと思う。森見登美彦が京都で黒髪の乙女との恋を書き続けるのと同じである。

酒とタバコが嫌いになったきっかけは間違いなく親や親戚のせいだと思う。
うちの親は酒を飲んで夜中私を一人家に残してふらふら遊びにいったり、理不尽なことで怒鳴ったりした。親戚はからみ酒をするような人間ばかりだった。いたるところでタバコの煙まみれになった。臭いからやめて!と言っているのに逆ギレをされる、というのを繰り返した。うちの親はまともな人間ではなく、私にとっては毒になるような振る舞いをし続け、その場には必ず酒とタバコがあった、というのがそれらに憎しみを抱くことになった原体験なんだと思う。

大人になった今、どちらかというのは悪かったのは親であり、酒やタバコではなかったな、ということに気づいたが、あまりにも憎しみが大きすぎて、酒・タバコに対する様々な思考やルールが展開されることとなった。酒とかタバコに頼ってストレス発散してる人は心弱いんだろうなとか(これは今でも本気で思っている)。ストレス源から距離をとるとか運動するとか昇華するとかしろよと。なんで自分を痛めつけてまでストレスを発散しているのかと(心の底から本気で思っている)。
それと、酒を飲んで感情をむき出しにしている人や喫煙者に対して生理的嫌悪感を反射的に抱くようになってしまった。そういう人に対して心を開く気持ちになれない。トラウマなんでしょう。その種の人間に対して自分が子どもらしくいられなかったということが。

でも社会ではこういう信念を抱いていると非常に生きづらい。喫煙者・大量飲酒愛好家が多数派を占めているためにそれだと心を閉ざして生き続けなきゃいけないので、そういった信念は保留にして、「勝手にしなよ〜」という振りで過ごしていたが、
わざわざ直すことでもないし、自分のことが世界で1、2を争うくらい大切なので、自分の精神衛生・健康が保たれることの方が、誰にでも合わせられるよりも大事だな〜と思った。誰とでも仲良くできなくてもいいや。無理なもんは無理

なので「お酒飲めないの?練習したら飲めるようになるよ〜」とか死んでほしい、と言っているのはそういう思想から来ていることなので、飲めるようになるつもりもないので干渉しないでいただきたい。私も自分の立場を表明することはあるかもしれないけど、押し付けることは絶対にしないでいたい。心のどこかで嫌悪感は抱くと思うけど

こういう思想を初めとして、私が私の尊厳を守るためにできたルールが自分でも意識していないくらいたくさんあるので、人に迷惑をかけるようなルールはさっさと撤廃したいなーと思っているが、別に私の勝手じゃない?っていうやつは無理に信念を曲げるようなことはしたくないなと。無理な人は無理で、面倒くさいと言われようが別に良いよ、面倒くさくて、と思うことにした。誰からも好かれるような生き方をするのは私にとって厳しい。

帰って楽をするためのライフハック

  • 鯖缶は美味しいけど洗うのがめんどくさいし、臭いので買わない方が良い
  • 紙パックのお茶の方がいい ペットボトルは洗うのがめんどうだから
  • ブルーレット置くだけは本当に置くだけなのでびっくりする
  • 家でお茶を作るときは2リットルくらい入るボトルを買わないと、洗うのがだるい

こうして書くと水周りの家事への憎しみが強いことがわかる。引っ越したらまず食洗機を買うだろう。
会社でSEOの実装担当になったので「ライフハック」などというSEOっぽいワードを使ってしまった。SEOなんて興味がなく本当にどうでも良いと思っているのに担当になるとは、非常に皮肉だ


彼氏がポケモンをやっていて、メスのゴマゾウのニックネームを「ゴマみ」にしていた。天才なんじゃないだろうか。

昇悟と純子『evergreen』を見てきたというエモーショナルの書きなぐり

昇悟と純子の『evergreen』というお芝居を見てきた。私は語彙がなく、学がなく、演劇の知識は尚のこと一切無いのでめちゃくちゃ面白かったとしか言えない。

でも夜道を歩いている間に、興奮のせいでこんなところが素敵だったと言いたくなってしまった。純粋に面白かったでも良かったんだけど、いろいろ「あ!」と思うことがあったので。

自分が詳しくないものへの感想を述べるというのは憚られるし、意図がズレてるな〜といろんな人に思われる可能性があるが、それでもあの気持ち、この気持ちの高揚を書かずにはいられない。すごく面白かったことを伝えたい。これはネタバレになるのでしょうか?ならないように書きます。完全に私個人の解釈や感想にしたいです。
(※追記:やはりネタバレだそうです)

『evergreen』の本質はどこにでもある話で、何度も何度も繰り返されてきた話なんだと思う。何気ない言葉で恋に落ちる人がいて、一生懸命彼・彼女を振り向かせてようやく結ばれて幸せ〜!と、思いきや、そう簡単に甘い日々を過ごさせてはくれない。上手くいかない。多くの人が身に覚えがあったり、見聞きしたことがある話なんじゃないか。

そんなストーリーの肉付けがもう本当に可笑しい。めちゃくちゃに可笑しい。本当に腹がよじれるくらい笑った。デペイズマンというキーワードとは裏腹に、デペイズマン的要素を排除した「うわー!わかる!ある!」という笑いがうわーっと散りばめられている。ダブルラテ。馴れ馴れしいスタバ店員のあいさつ。シーシャ。なんとかバル。100種類のサワー。トイレにある親父の小言ポスター。そういうのが、適切なタイミングで、笑いを生んでくる。なんというか、知っている要素がたくさんあるのに、めちゃくちゃ新鮮で、それが不思議だった。

主役2人の心の機微も、非常に共感できるというか、めちゃくちゃ人間臭くて、心がぎゅっとさせられた。
そういう気持ち、そういうセリフ、言ったことある。聞いたことある。そう、そういうのが人を傷つけたり傷ついたりするんだよな。相手のことを思ってやっていたのに、自分の思っていた幸せとは違う方向にどんどん行ってしまう。ほとんど自暴自棄。
でもあの人のことが好きだから。最初思っていたのとは違うけど、自分が選んだことだから。これで間違ってないんだ。うんうん。
シュールこそが芸術的でユーモラスだと思いがち。そうじゃないと人から認めてもらえない、愛してもらえないと思ってしまう。でもふと気がつくとやっぱりポピュラーなものって良いじゃん。世田谷ベースのような生活がしたい。売れてるからスピッツのこと忌み嫌ってたのに、ロビンソンがめちゃくちゃ名曲だった。
人生でそういうシーン見たことある。

こういうことを繰り返したときに待っているのは果たしてハッピーエンドなんだろうか?

そして、そうやって笑ったり心がぎゅっとなって迎えたラストが本当にキラキラしていて、それが『evergreen』を最高のラブストーリーにさせていた。コメディだと思っていたら、純愛だった。ちょっと泣いた。ラブストーリーは得意じゃないのに、そこで全部心を持って行かれてしまった。『evergreen』はすごく美しい話だった。

ネタバレしないように書いたらすごくぼんやりとした話になってしまった。見た人としか共有できなさそう。共有する人が欲しいのでぜひ見に行ってください。めちゃくちゃ面白いです。https://shogotojunko.tumblr.com/

 

そんなつもりじゃない

当たり前なことを言うが、人をわざわざ傷つけたいなんて思わない。強い信念で思っている。私と喋って不愉快だったな〜とはできれば思って欲しくない。もちろん、100%の人にそう思ってもらうことが無理なのは重々承知である。

インサイトでは良い人だと思われたい、という気持ちが働いているのかもしれないが、相手を快の気持ちにさせたい、と本気で思っている。多くの皆さんはそうじゃないでしょうか。だからクソ不愉快な思いをさせられても本人にぶつけることはあまりしない。大方の場合、相手だって故意があってやってるわけじゃない。まあむかついたらボロクソに陰口は言うけど。

そういった信念があるため、それが全うできなかった時は強烈な自己嫌悪に陥る。ひどいときは1ヶ月くらい平気で引きずる。10年前の失言を未だに悔やむ。アー、死にたい死にたいとつぶやく。でもそんな行いが完全に遂行出来ないのはわかっている。私が疲れていてポロっと本音が出てしまったとか、相手の地雷をうっかり踏んでしまったとか。

まあそういうような失敗がちょいちょいありまして、最近特定の人に何度か怒られているわけですよ。言葉に気をつけろよと。めちゃくちゃ気を付けてるしめちゃくちゃ反省もしているが、それでも癪に触るらしい。でも「それもダメなの?」という感じで、ははーん、傷つきやすいんだなこの人は、っていうのが分かった。
で、傷つきやすい人まで考慮してられるかボケが、というのが結論になった(すぐボケとかカスとかいうのも良くないですね、でもこういうときは本気で怒ってるので躊躇いもなく言う)。自分も比較的ナイーブな方だが、傷つきやすい人間は、「そんなつもりで言ったんじゃないのに…」という言葉も勝手に自分が責められていると解釈して傷付いたりするんですよね(過去の経験から)。

そういう人の「被害妄想スイッチ」が入ってしまったらもうどうしようもない。褒め言葉も嫌味に受け取られてしまう。こうなったら本人が自分の性質に気付いて改善していくしかない。第三者にその役目は難しい。だからそこまで考慮して振る舞うのはただただ辛く不可能なのだ。

でもそういう人最近多いですよね。だからポリティカルコレクトネスとか流行るんじゃないかって思う。傷つけるつもりはないのに、傷付かれるってすげえ苦しい。ラブソングみたいなこと言うけど。私にも非があるのは承知なんだけど、「それくらい言葉にさせてくれ」という気持ちに最近よくなる。こう思ってしまう私はもしかしたら現代に適応してないかもしれないですね。そうだとすれば人里離れた山からもう出ません。

花が綺麗だなんて知らなかった

初コンタクトの会社の人にブログを教えてしまって、性格がやばいという噂が蔓延するのではないかと心配しているが、冷静に考えたら何が問題なんだという気がする。どうせ根暗なのも面倒な性格なのもいずれバレるのである。

ところで、23年間生きてきて草花がこんなに綺麗なものだとは知らなかった。

桜だけはずっと好きだったんだが、こういった花々に対してはなんの感動も覚えていなかった。綺麗だねえ、と言われても「ふーん」としか思えなかった。まさに花より団子。そうだったにも関わらず最近は道端に咲いている小さな花や苔に対してもいちいち感動している。それが振り切って茨城まで花を見に行ってしまったが、感動しっぱなしだった。今は部屋中を植物で埋め尽くしてしまいたいとすら思っている。

2年くらい前に「精神の危機」が訪れた時に、本で「お前みたいな辛い辛いばっかのやつは空の綺麗さや草花の美しさも知らないんだ(要約)」みたいなことを読んで、「確かに知らんな」と思って、心が辛い時こそそういった外の世界に目を向けなきゃな、と思い始めた。それから花が好きになったように思う。綺麗な景色を眺めるだけで心が楽になったり嬉しい気持ちになるという事実は、私にとってはノーベル賞並みの功績である。できればいつもそれを覚えていられれば良いのだが。


最近ちょいちょい「なぜ好かれようとする程嫌われるのか」という話をしていて、こないだ話している途中で自分の中でこれだ!という結論が出たのですが、

「”好かれたい”という感情は大抵相手ではなく自分に向いていて、そのため相手の感情や性質を考慮することなく行動してしまうので、”好意はありがたいけど、なんかやだな〜”という結果を招きがち」

ではないかと。好かれたい、嫌われたくないと思えば思うほど自分にエネルギーが向く気がする。もうその時点で相手のことは視界に入ってない。なので好かれたいと思って行動するのは無駄です。好かれる人には何をしても好かれるし、嫌われる人には何をしても嫌われる。「なんであんなやつが好かれるのか?」って人世の中にいっぱいいるじゃん。もう好かれようとして行動するのはやめにしましょう。自戒を込めて。