あれから2年

ちょうど2年くらい前に強迫観念と強迫行為に追われるという形で気が狂ってしまったのですが、なんとか再び発狂せずに休職とかもせずに生きていれるのでよかったなと思いました。
厳密には自分には3歳ごろからそういう意味で発狂気味だったので、初めて自分の性質に気づいたのが2年前というだけだと思う。

もう当時は絶望しきっていて、「一生この感じでいつ発狂してしまうかわからない自分を怖がりながら生きていくのかな…」と思ったんですが、波はありつつもだいぶ落ち着いて暮らせるようになったので良かった。まだ強迫観念は出るけどコントロールできるようになってきたし、パニックレベルもかなり下がってきた。またこの状態から悪化することもあるんだろうけど、自分がそういう仕組みだということがわかっているので、がんばってやり過ごしていく。

でもなんというか、まだまだ自分の神経症傾向は変わってないなあと思っていて、相変わらずいろんなものが怖くて外に出るのも疲れる。めちゃくちゃ注意して生きるか脇目も振らず猛ダッシュして生きていくかの2択しかない。この傾向を打破したいんだけど23年それで生きてきてるので難しい。その気になれば打破できるんだろうけど、どういった形で打破していくのかまだわからない。でも多分心を他人に開くとか毎日家事を欠かさないとかそういうところなんだろうな。自分の安全地帯を作って出ないので、こういう性格なんだと思う。いまは病気なんかよりこのビクビクおどおどとしている性格がつらい。

あとそういう自分の性格を分析したり自意識が過剰も過剰になったせいで、自分の本質が全くわからない。すごく純粋な気もするし、汚れきっている気もする。素直な気もするしめちゃくちゃひねくれている気もする。自分に自信がないけど、自己評価が高い気もしてくる。すごく人の気持ちに敏感な一面もあるけど、うっかりめちゃくちゃデリカシーのないことを言ってしまう。「いやあ、怒って当然です・・・」と思う反面、「それくらいで傷ついてんじゃね〜めんどくせ〜」と思う。
今は自分のことを怖がりで素直で自分が大好きで自己評価が高くてデリカシーが無い雑な人間だと思っているけど明日には変わっているかもしれない。ひねくれたことをいうのは、素直だとバカにされるからで、自分に自信がなくなってしまったのは色んな出来事と、自己評価が高いと潰されるからで、デリカシーが無いのはそういう人たちに囲まれて暮らしてきたからだけど、それだと反感を買ってしまったので必要以上に繊細になってしまった。

みたいなことをつらつら書いてるとやっぱり自分の生きてきた環境は異常なことが多かったなと思うけど、そういう経験が活かせたまま生きていけたらいいのにと思う。今の環境だと難しい。どこでも難しいんだろうけど

日記

3日間じっとしていたら暗い気持ちになってきた。早く会社に行きたい。
こう気持ちがどんよりしたり、むしゃくしゃした時に無闇やたらに発散しようとせずに「あー、気持ちがどんよりしているなあ」とか「まあ3日もだらだらしてたらそうなるよな」と思えるようになったのは成長したなと思う。

最近は暑いし、平日の出費が多くて休みの日にどっかに出かけようという気持ちにもなれない。勉強はなんだか捗らない。根本的に何もしたくない。主体性とか意思とかがどんどん死んでいるような気がする。それとは反比例して仕事が楽しくなっている。無関係じゃ無いとすれば怖い。

東京に来てからより雑談が苦手になった気がする。でも、関西弁だと言葉が流暢に出てくる気がする。ちょっと踏み込んだ発言もできる。これは関西弁の力なんだろうか。英語だとはっきりと発言ができる、みたいな人って多いらしいし。関西弁だとちょっとフレンドリーに話せるのかもしれない。標準語だと無意識に壁を作ってしまう。それとも関西弁で喋れるくらいの人は心を許しているということなのか?
関西の外で関西弁で捲くし立てるのはどうなんだろう、と思っていたけどちょっとそういう人の気持ちや無意識理解できたかもしれない。

 

意識高いとか言われてもどうやったら日本がよくなるのかとか、みんな幸せに生きれるのかとか大学で討論していたの、無意味だったけどやっぱり楽しかったと今振り返ると思う
自分が苦しいのは、社会のせいじゃなくて自分のせいなんじゃ無いかって思ってた部分もあったけど、やっぱり社会がよくなればもっと私も周りも心の余裕とか持てて生きやすかったなという部分は確実にあって、
自分が真に燃えるのはそういうことなんだなあと思うので、どうしたら日常的にそういったことに取り組めるかを考えている。

英語勉強したい、今の仕事ももっとできるようになりたい、社会政策に触れていたい、痩せたい、ギターを弾きたい、お金を貯めたい、引っ越したい、穏やかで健康な毎日を送りたい、叶えたいことがたくさんあって大変だ。もっと毎日頑張りたいけど、何もしないことで自分を守っていた人生をすぐに切り替えるのは難しい。脳は変わりたく無いと言っている

面倒くさい人間であり続けるのかもしれない

酒タバコが本当に嫌い、・・・と書き出したところで何度も何度も同じようなテーマでブログを書いている気がした。でもまた書くことにした。これは納得がいくまでずっと書き続けるのだと思う。森見登美彦が京都で黒髪の乙女との恋を書き続けるのと同じである。

酒とタバコが嫌いになったきっかけは間違いなく親や親戚のせいだと思う。
うちの親は酒を飲んで夜中私を一人家に残してふらふら遊びにいったり、理不尽なことで怒鳴ったりした。親戚はからみ酒をするような人間ばかりだった。いたるところでタバコの煙まみれになった。臭いからやめて!と言っているのに逆ギレをされる、というのを繰り返した。うちの親はまともな人間ではなく、私にとっては毒になるような振る舞いをし続け、その場には必ず酒とタバコがあった、というのがそれらに憎しみを抱くことになった原体験なんだと思う。

大人になった今、どちらかというのは悪かったのは親であり、酒やタバコではなかったな、ということに気づいたが、あまりにも憎しみが大きすぎて、酒・タバコに対する様々な思考やルールが展開されることとなった。酒とかタバコに頼ってストレス発散してる人は心弱いんだろうなとか(これは今でも本気で思っている)。ストレス源から距離をとるとか運動するとか昇華するとかしろよと。なんで自分を痛めつけてまでストレスを発散しているのかと(心の底から本気で思っている)。
それと、酒を飲んで感情をむき出しにしている人や喫煙者に対して生理的嫌悪感を反射的に抱くようになってしまった。そういう人に対して心を開く気持ちになれない。トラウマなんでしょう。その種の人間に対して自分が子どもらしくいられなかったということが。

でも社会ではこういう信念を抱いていると非常に生きづらい。喫煙者・大量飲酒愛好家が多数派を占めているためにそれだと心を閉ざして生き続けなきゃいけないので、そういった信念は保留にして、「勝手にしなよ〜」という振りで過ごしていたが、
わざわざ直すことでもないし、自分のことが世界で1、2を争うくらい大切なので、自分の精神衛生・健康が保たれることの方が、誰にでも合わせられるよりも大事だな〜と思った。誰とでも仲良くできなくてもいいや。無理なもんは無理

なので「お酒飲めないの?練習したら飲めるようになるよ〜」とか死んでほしい、と言っているのはそういう思想から来ていることなので、飲めるようになるつもりもないので干渉しないでいただきたい。私も自分の立場を表明することはあるかもしれないけど、押し付けることは絶対にしないでいたい。心のどこかで嫌悪感は抱くと思うけど

こういう思想を初めとして、私が私の尊厳を守るためにできたルールが自分でも意識していないくらいたくさんあるので、人に迷惑をかけるようなルールはさっさと撤廃したいなーと思っているが、別に私の勝手じゃない?っていうやつは無理に信念を曲げるようなことはしたくないなと。無理な人は無理で、面倒くさいと言われようが別に良いよ、面倒くさくて、と思うことにした。誰からも好かれるような生き方をするのは私にとって厳しい。

帰って楽をするためのライフハック

  • 鯖缶は美味しいけど洗うのがめんどくさいし、臭いので買わない方が良い
  • 紙パックのお茶の方がいい ペットボトルは洗うのがめんどうだから
  • ブルーレット置くだけは本当に置くだけなのでびっくりする
  • 家でお茶を作るときは2リットルくらい入るボトルを買わないと、洗うのがだるい

こうして書くと水周りの家事への憎しみが強いことがわかる。引っ越したらまず食洗機を買うだろう。
会社でSEOの実装担当になったので「ライフハック」などというSEOっぽいワードを使ってしまった。SEOなんて興味がなく本当にどうでも良いと思っているのに担当になるとは、非常に皮肉だ


彼氏がポケモンをやっていて、メスのゴマゾウのニックネームを「ゴマみ」にしていた。天才なんじゃないだろうか。

昇悟と純子『evergreen』を見てきたというエモーショナルの書きなぐり

昇悟と純子の『evergreen』というお芝居を見てきた。私は語彙がなく、学がなく、演劇の知識は尚のこと一切無いのでめちゃくちゃ面白かったとしか言えない。

でも夜道を歩いている間に、興奮のせいでこんなところが素敵だったと言いたくなってしまった。純粋に面白かったでも良かったんだけど、いろいろ「あ!」と思うことがあったので。

自分が詳しくないものへの感想を述べるというのは憚られるし、意図がズレてるな〜といろんな人に思われる可能性があるが、それでもあの気持ち、この気持ちの高揚を書かずにはいられない。すごく面白かったことを伝えたい。これはネタバレになるのでしょうか?ならないように書きます。完全に私個人の解釈や感想にしたいです。
(※追記:やはりネタバレだそうです)

『evergreen』の本質はどこにでもある話で、何度も何度も繰り返されてきた話なんだと思う。何気ない言葉で恋に落ちる人がいて、一生懸命彼・彼女を振り向かせてようやく結ばれて幸せ〜!と、思いきや、そう簡単に甘い日々を過ごさせてはくれない。上手くいかない。多くの人が身に覚えがあったり、見聞きしたことがある話なんじゃないか。

そんなストーリーの肉付けがもう本当に可笑しい。めちゃくちゃに可笑しい。本当に腹がよじれるくらい笑った。デペイズマンというキーワードとは裏腹に、デペイズマン的要素を排除した「うわー!わかる!ある!」という笑いがうわーっと散りばめられている。ダブルラテ。馴れ馴れしいスタバ店員のあいさつ。シーシャ。なんとかバル。100種類のサワー。トイレにある親父の小言ポスター。そういうのが、適切なタイミングで、笑いを生んでくる。なんというか、知っている要素がたくさんあるのに、めちゃくちゃ新鮮で、それが不思議だった。

主役2人の心の機微も、非常に共感できるというか、めちゃくちゃ人間臭くて、心がぎゅっとさせられた。
そういう気持ち、そういうセリフ、言ったことある。聞いたことある。そう、そういうのが人を傷つけたり傷ついたりするんだよな。相手のことを思ってやっていたのに、自分の思っていた幸せとは違う方向にどんどん行ってしまう。ほとんど自暴自棄。
でもあの人のことが好きだから。最初思っていたのとは違うけど、自分が選んだことだから。これで間違ってないんだ。うんうん。
シュールこそが芸術的でユーモラスだと思いがち。そうじゃないと人から認めてもらえない、愛してもらえないと思ってしまう。でもふと気がつくとやっぱりポピュラーなものって良いじゃん。世田谷ベースのような生活がしたい。売れてるからスピッツのこと忌み嫌ってたのに、ロビンソンがめちゃくちゃ名曲だった。
人生でそういうシーン見たことある。

こういうことを繰り返したときに待っているのは果たしてハッピーエンドなんだろうか?

そして、そうやって笑ったり心がぎゅっとなって迎えたラストが本当にキラキラしていて、それが『evergreen』を最高のラブストーリーにさせていた。コメディだと思っていたら、純愛だった。ちょっと泣いた。ラブストーリーは得意じゃないのに、そこで全部心を持って行かれてしまった。『evergreen』はすごく美しい話だった。

ネタバレしないように書いたらすごくぼんやりとした話になってしまった。見た人としか共有できなさそう。共有する人が欲しいのでぜひ見に行ってください。めちゃくちゃ面白いです。https://shogotojunko.tumblr.com/