2022/03/04

休職して2週間以上経っただろうか。時間が流れるのがとても遅い。

最初の数日はやっと休めるということが嬉しくて、ほっとして、さあ何しようかな!とたくさん本を読んだ。土日はそう過ごして、そのうちに自分を責めるような考えばかりが浮かんで毎日泣いて怒って過ごした。

なぜこうなってしまったのか、私は休職しなくてもよかったんじゃないか、なんで頑張れなかったんだろう、職場の人は私を弱い人間だと責めているんだろうな、こうなる前にもっと何かできなかったのか、私に能力さえあれば。でも限界だったんだから。

文字通りの堂々巡りだった。

「休職 もう終わり」とか、「休職 ずるい」とかそういうGoogleのサジェストばかりが気になって、ああ、もう自分は終わりだな、もうどこも雇ってはくれないだろう、そもそもこの世に私を受け入れる環境なんかあるのだろうか。無職がお似合いなのかもしれない。

こんな気持ちになるのであれば、自分の心を殺して働き続ける方がマシだったのかもしれないと思った。むしろ、こうなることを恐れて何かと理由をつけて働き続けたのが、この数年の時間だったと思う。

「くるしいくるしい、休職なんかしない方がよかった」と悩む私に夫が「完全にその過去を悔やんでる感じがうつのそれだよね」と苦笑いした。あー、そうなんだろうな〜と思い、まあ時間が立てばもうちょっと建設的に考えられるかな〜と、1週間ほど泣いたり自分の精神のやわらかいところをいじくったりしながら過ごしたら、回復してきたのか意欲の芽を心の中に感じた。久々に家事ができる。心の底から笑える。頭が、心が、体が軽い。会社のことは思い出すとお腹が痛くて心が苦しい。

そんなわけで今週は比較的意欲的に活動できた。休むと元気になる。いつぶりだろう、2年以上、3年以上ぶりかもしれない。エネルギーを感じる。もう大丈夫になってきている。精神科医とも相談して、休職は今月中で切り上げられそうである。病気休暇を使うだけで済んだ。しかし会社に戻って「普通」に働けるビジョンは見えない。


会社を辞めた人に会って話したり、性格診断を受けたり、純粋に職務から離れて思い出したのは「私は真面目ではあるが基本的に自由を求めるしいい加減な人間である」ということだった。

本当は面白いことだけしていたい。議論をしたり検討をしたり、戦略を考えたりをしたり、コンセプトを考えたり美しいものに拘りたい。仕事は好きだが「作業」をしたくない。めんどくさいし、つまらない。事務作業ができない。ストレスが溜まると、より細かい作業に対する耐性が下がる。「障害」であるかは置いておいて、多動や不注意の傾向がある。

でもこんなやつ、めんどくさいから基本的に職場に置いておきたくないじゃないですか。口だけのやつは嫌われる。私はこの一般的事実に非常に自覚的であり、責任感をひどく発達させることで「口だけじゃなくちゃんと手を動かしますよ」ということを見せつけてきた。でも、本当はもっと口だけのやつでいたかった。

勉強はできるから、大体の仕事は卒なくこなしてきた。苦痛な「作業」もたくさんやった。自分にとってはこの「作業」を正確にやり遂げることがかなり困難だった。もちろん達成感もあったし、人に褒めてもらいたい部分ではあったのだが、一般的な人間にとってそれは大した話ではないわけで、人事評価もされない。その代わり「頭がいい」という定性的評価を獲得するわけだが、自分としては十分に能力を発揮していないにも関わらずそう言われることは「勉強はできるけど仕事はできないよね」と言っているようにしか聞こえなくて自己評価をさらに下げることになり、余計「作業を正確にしっかりと行わなければならない」という強迫観念に支配されることになったのだった。こんなこともできなければ、どこでもやっていけない、と思っていたと思う。

この時点で私が本来持ち合わせていた柔軟性とか自由を愛する心とかは死に絶えていて、その状態で長年仕事をすることになってしまい、徐々に精神が追い込まれていったんじゃないかと思う。本当に、ちょっとずつ苦しくなっていったと思う。気がつけば自分で自分を追い込んでいた。

定期的に話を聞いてくれる人間が職場に居ればもうちょっと違ったと思うし、自分がこの最悪のループに気付いておけば、もっと会社やめるとか環境を変えるとかそういうことができたと思うんだけど、まあ仕方ないかなと思っている。会社に対しては、明らかに調子の悪い従業員を目の前にしてもっとどうにかできなかったわけ?とは思うけど私の特性が社会の平均からは外れているのでさぞかし面倒だったでしょうねと感じる。


結局のところ、自分自身の受容と、迷惑をかけてもいいじゃないか、嫌われてもいいじゃないか、という生き方を心底徹底しなければまた繰り返すことになるんだろうなと思う。これがまた難しいんだよな。

休職を選んで一時は後悔したんだけど、今はすごくよかったと思っていて、今まで何かから逃げることが苦手だった自分に逃げる経験をさせることができたのが一番よかった。続けたくないなあという部活も辞めれなかったし、バイトを4年続けた理由も結局逃げるのが怖くて、というのが大きかったし。

あと半年前から受けてるカウンセリング、これがなければ多分まだ会社で吐きそうになりながら這いつくばっているか、もっと重症になっていたと思う。不安でパニックになったときの対処法も少し使えるし、カウンセリングを経て少し取り戻した自己肯定感と、自己実現したいという気持ちが自分がここから逃げることを促してくれたような感覚がある。まあたまたまかもしれないんだけど……。

まあ、そんなわけで結構元気です。

限界じゃなかったことがない

会社をしばらく休むことになった。もう長いこと仕事は面白くなかったし、冷静になるとなんでその仕事を辞めなかったのか??と思うような理不尽なことも何度かあった。普通に転職活動をして辞めるつもりだったが、夫にマジで最近のお前はおかしいから産業医面談を受けて一回休んでくれと言われ、会社で嫌だったこととか最近仕事も趣味も全然集中出来てないンすよね、とかそういう話をしたらソッコー休職で!と言われあれよあれよと休職の手続きが執り行われた。

私は感覚過敏な一方で、殊に仕事については感覚鈍麻という感じで、嫌なことがあっても感情が揉み消されるといつか、遅れてくるというか、それが溜まりに溜まって急に爆発するのを何度も繰り返してきた。この2年は常にツラいという感情が振り切っていて麻痺しつつも、何かあった時に些細なことですぐに爆発してしまうような感じだった。

麻痺してたので、完全にまともな状態じゃなかったんだけど、憎しみが変装した責任感で会社にはコンスタントに行っていた。それなりに働いて、やり甲斐はないけど、(何かが)どうにかなるかもしれない、という気持ちで仕事していたんだけど、これはどうにもならないわな、と気付いたときに心が折れてしまった。

ぽっきり折れた気持ちで、「まあ私が全部悪いんで……」という気持ちで処理していた辛い出来事を夫に話したらかなりマジで怒ってくれて、もうそんな会社には行かなくていいと強制的に休暇をとらされた。休んでしばらく冷静になって、いかに自分が我慢していたのかということに気付いた。生きててこの方ほとんどの時間がしんどかったのでそれが普通だと思っていたのだが。

いまはとにかく1日でも長くやすみたい。学生時代からかなり無理な生活をしてそのまま社会人になったので休養が欲しい、とにかく。


そして、私が数年間築き上げたと思っていた精神的な健康とそれを維持する仕組みは虚構だったということがわかった。

親からネグレクトされたり精神的に虐待されていたので、小さい頃から心に脆弱性を抱えたまま社会に適応しなきゃいけなくなったんだけど、大学生の時に家から出れなくなるレベルの故障をやらかした時に、加藤諦三の本とかアドラー心理学とかの類の自己啓発ばかりに頼って自分のことを受け入れずに生きてきてしまったのが失敗だったなと思う。

ある程度、そういう自己啓発は必要だったし今も必要だと思うんだけど、結局あれだけに頼るのは骨折したときに固定とか治療をせずにリハビリをするみたいなことだったと思う。あの時必要だったのは複雑性PTSDの診断と自分の心身を受容する訓練と治療、そのあと初めて認知行動療法を受けたり加藤諦三の本を読むとか、そういう順番でやる必要があった。

まああの時はお金なかったし、自分が虐待サバイバーという自覚もなかったから複雑性PTSDや発達トラウマの概念に出会うことはありえなかったし、数年前は今よりもトラウマ疾患の知名度も低かったので、とにかく低コストな言葉でスピーディに表面的に健康な人間として立ち直って会社員としてやっていく必要があった。だからこういう結果になるのは必然だったのだと思う。

それと同時に、自分の精神のハードモード加減にうんざりする、人が感じなくていいものを感じ取ったり、感じるべきものを感じることができないためにしなくていい苦労ばかりしている、しかも難知性で治療法も時間をかけて色々試さなきゃいけない。

私は幸いにも半年くらい前から治療を受けられているけどまだまだ回復にはかかるなと思うし、今後の人生で同じようなことがあってもまた失敗するような気がする。それは課題を自覚しているからなので、希望を持っていいのかもしれないけど。


2年半前に、やっと、望んでいた仕事ができそう、ってなったんだけど結局あんまりできなくて、任せてもらえなくて、とにかく私の能力が足りないからだと、目の前のことを必死でやればついてくると思ったし、信頼して任せてもらえると思ってたんだけど、結局私は誰からも見向きもされず、ただ無力感と苦しみだけが残ってしまった。それは私の能力の問題じゃなくて、見る目が足りなかったから、諦められなかったから、逃げるのが怖かったからだった。本当に間違えたと思う。チャレンジすることさえできなかったから諦めることもできなかった。本当に悔しくて恨めしくて、この気持ちをここにぶつけることしかできない。でも早く気づいてよかった。まだやり直すことは出来るよね、やり直させてくれ、やりたいことをやるにはもう時間がないようなきがする

ゆっくり英語

Siriの読み上げ、めちゃくちゃ不自然な日本語に聞こえるじゃないですか、あれって外国語でも同じことが起こっていたりするんだろうか。

もし私が自動読み上げ機能を使って英会話を勉強して、それで単身アメリカに乗り込んでSiri喋りしたらバカウケしないかな。

外国人がSiriで勉強した日本語です、って言って「はい、なんでしょうか」ってあの喋り方してきたらめちゃくちゃウケると思う。

将来的にはゆっくり音声で日本語勉強した外国人とか出てきて「霊夢〜」とか「うわ〜」とか事あるごとに言われてムカついたりする。

日記 8/29

こないだ急にYouTubeのおすすめに中学入試の図形問題の解説が出てきて、どうやって解くのか普通に分からずにクリックしてしまった。解説している講師の説明があまりに上手くてその人の動画ばかり見ていたら、今度は大学入試の整数問題とかまでサジェストされるようになった。あの時全然解けなかった問題たちが。

今更数学的帰納法ってこういう感じで構築していくのね、とか整数問題のパターンってこういう感じか、というのが分かってきて、あの時何も考えずに愚直に青チャートを解いていた自分が哀れに思えた。そして、時間制限なく取り組む数学の面白いことよ。

高校2〜3年というと精神病真っ盛りという感じで計画性も戦略性もないし、金もないので予備校とかにも行けなかったわけだけど、当時こういうものに触れられれていれば何かもうちょっと変わったんだろうなという気がした。

当時を思い返す。

自力で本質とか答えに辿り着こうと思うと、時間をかけて愚直に試行を重ねるしかなかった。別に授業を完璧に理解できてるわけじゃないから必ずしも答えに辿り着けることもなく、昔はもっと勉強できたのになと思いながらもっと勉強が嫌いになって、机から遠ざかって自己嫌悪で精神をさらに病み、自分ではこの現状をもうどうにもできないから自殺したいと願いながら死ぬこともできず、自傷行為をしては仕方ないからまた机に向かっては愚直に問題を解くみたいな生活をして、努力し続ける能力がないのでiPhone3GSでWikipediaを読んで現実逃避しまくった。こんなんで、なんで大卒になれたんだろう。何かあの時糸口があればあの暗いサイクルから抜けられたんだろうな。

今もほとんど何も変わっていない。

少し変わったのは、自分が頑張れない理由やパフォーマンスが出せない理由を客観的に見て仕組みを作ろうと試みているところだろうか、でも頑張れないし計画性も目標もないのも相変わらずだ。

力が足りないことでまた打ちのめされて努力ができなくて打ちのめされて打ちのめされているじぶんがくだらなくて自己嫌悪で打ちのめされてそれでも自分の意思を貫くには戦い続けるしかなくてもう疲れているのだがやるしかなくてウーウー毎日言っている、あまりにも生きづらい。そもそもどうして私は何者かになりたがっているんだろう、ただ生きているだけじゃだめなのか。でも何かに急き立てられて何者かにならなきゃいけない気がする。これは種の保存とかそういうものに近いような欲求なのかもしれない。

そんなんだから普通に楽しむだけでよかったのに何者かになりたいがために勝ち負けや優劣の概念が出てきて苦しくなって趣味ではなくなってしまったものがたくさんある。苦しみを超えた先により楽しい世界が待ってたりしたのかな。わからない。

エイサーの思い出、とくにミルクムナリ

幼稚園の時に宮古島に引っ越した。

ただでさえ、文化の違いは凄まじく、知らない言葉や遊びや人間関係の距離感に戸惑うばかりの毎日だったが、その中でも一番衝撃的で受け入れがたかったものが「エイサー」だった。

年度の途中で転入することになった学童保育で、同い年の子供たちが知らない民族音楽で踊る様子をただただ見学させられ、純粋に「怖い」と思ってしまったのだ。

方言や訛り、手遊びが若干違えど普段コミュニケーションが取れる子供たちが当然の様子で全く知らんことをやっている。自分だけがわからない。無駄に荘厳な音楽が怖い。歌詞がひたすらに方言で何を言っているのか理解できない。しかし彼らはそんなことはわかり切っていると、疑問も無く踊っている。

そんな様子に、自分はどこまでもよそ者であるということを感じさせられ、それからずっとエイサーというものに拒否反応を持ちながら生きてきた。
数年後に小学校の運動会でエイサーを踊らされたときも、なんでこんなことをしなきゃいけないんだろう、と思っていた。なぜ私にショックを与えた側の文化に染まらなきゃいけないんだろうかと。

それからすぐに宮古島を離れ、私も大人になり、時が経ったことでそのような暗い気持ちも幾らか浄化され、「あれって一体なんだったんだ」という疑問が湧いてくるようになった。

エイサーって何?なんでやるの?いつからやってんの?私が初めて見たエイサーのあの曲は一体なんていう曲なの?歌詞の意味は?なんであんな荘厳なの?やっぱりあれは沖縄の暗い歴史がそうさせるのか? といった疑問が次々に湧いて、とりあえず「エイサー 曲」とYoutubeで検索して出てきたのが、以下の曲なのだった。

あ〜これこれ、この曲ミルクムナリって言うのか〜と思って概要欄を見るとこんなことが書いてあった。

ミルクは「弥勒」、ムナリは「踊る」というインドネシア語。 無国籍音楽者「日出克」と南島詩人「平田大一」の手により生まれた楽曲は、聴く者の魂を鼓舞せしめる力強い曲調で、文化の違いを問わず人々の琴線に触れるものがあります。

https://www.youtube.com/watch?v=6uDI_4QxrJE

インドネシア語?無国籍音楽者?この曲って別にすごい昔からあるわけじゃないの?と、さらに調べると1993年の曲だということがわかった。同い年じゃねーか。あの時これで当然のごとく皆踊ってたけどせいぜい5、6年とかの文化だったってこと?それにショックを受けていた私の繊細よ。騙された気分だ

いや、でもこれ↑のやつ見て欲しいんだけどマジで一切言ってることの意味がわからないし、音楽も沖縄っぽくあり沖縄じゃ無いというか、今聴いてもめちゃくちゃ斬新ですごく面白いんだけど、それを5歳の子供がすっと受け入れるにはかなりハードルの高い作品じゃないですか?異文化にも程があるというか。そのとき流行ってたの篠原ともえとかPUFFYですからね

で、歌詞の意味も私以外の周りの人間は当然知っているんだと思っていたんだけど、歌詞がいわゆる「八重山方言」で、私の住んでいた宮古島の方言体系とは全然違うものだということがわかった。誰も分かっていなかった可能性がある。

しかもこのエイサーの形ができたのも戦後にコンクール化したことによるものらしいし意外と歴史が短いということもわかった。思っていたのと違う。伝統だから歴史文化だからと偉そうに説かれてきたのはなんだったのか。何もあてにならない。

それよりもミルクムナリ、音楽的にめちゃくちゃ面白いなというのが個人的には最も感動したというか、もっと南方や異国の音がしてコアは別に沖縄の民族音楽じゃないんだよな。音階とか。それでも沖縄の人に沖縄の音楽であると受け入れられる言葉のパワーやエッセンスとか、すごく絶妙なバランスで成り立っている感じがする、音楽の詳しいことは知らないけど改めて聞いてこれすごいなと思った。ボーカルの力強さとか。

新しい文化を知ったり楽しむ/楽しませる、知ってもらうためには突然豪速球でぶつけても意味がないんだなと。それまでに地盤ができていないとだめだったり、もっと近いものから試すとか、そうじゃないと受け入れられないんだと自分の身を持って理解した。あるいは、かけ離れたものの場合、時間だけがそれを解決するのかもしれない。

ちょっとどうやって締めればいいかわからないのでエイサーあるある言います

  • 道路封鎖しがち
  • 封鎖された道路の周りで椅子とかシートとか開いて住民が見がち
  • とくに住民は盛り上がるわけでもなく無表情で見がち

ご清澄いただきありがとうございました。