無題 11/14

長らく仕事に振り回されており、とてもじゃないが文書を書く気になれなかった。文章を書くどころか、何にも興味が持てず、人と関わることを避け、最低限の生活以外には他に何もしていなかった。ポケモンも、どうぶつの森もできなかった。高頻度で業務内容が変わり、週に何度もゴールポストを動かされたので自信を失った上に精神が参ってしまい、真夏は自宅で1人さめざめと泣きながら働いていた。楽しみや欲求を失い空いた脳の隙間には何かしらの強迫観念が充満していて苦しかった。

漸くこの1ヶ月くらいで、業務内容(望んでいた内容ではないが)が固定され、「新しいことを始める」というフェーズを何度も繰り返す必要はなくなり、波に乗れるようになってきた。そうすると、この数ヶ月のことを振り返ったり、自分の精神を立て直そうという余裕が出てきた。

上司の仕事の振り方は狂っていたが、私に力が無いからこのような事態を招いているのだと、この数ヶ月は信じていた。でも振り返ると、私もあいつらも頑張っていた。頑張っても波乱だったならば仕方がなかったなと思える。

自分が理想とするような、アウトプットは出来ていなかったが頼まれたことは真面目にやってアウトプットを出したのだから、もっと自分のことを肯定しようという、ありきたりなことを素直に思えるようになった。この程度出来て当然だろう、ということがやってみると実はめちゃくちゃ大変だなの連続だった。それまでエンジニアをやっていたし、何かの管理をしたりルールを作ったり企画をすることの重さを知らない故の辛さもあったと思う。めちゃくちゃな要件定義や企画を渡してくる人たちのやる気や能力に対して疑問を持っていたが、あれ大変だったんだなと知った。

このように自分の気持ちや認識が整理されたことで仕事中の脳味噌もクリアになりつつあり、仕事中の不安感も軽減されるようになった。まあもっと早めに誰かに話を聞いてもらうなりブログを書いてそこに辿りつくべきだったのだが。


1ヶ月くらい前、ちょっと仕事の風向きも変わって心の余裕が出てきたタイミングで、部屋に閉じこもることにうんざりとした気持ちがあることに気づいた。感染状況も多少落ち着いた頃合いだし、1回くらい美味い飯でも食いたいなと思い高いランチを予約してみたりした。お世話になっている先輩の誕生日が近いので、プレゼントを買って、ご飯でもいかがですか?と連絡を試みた。SNSで分かってはいたが、先輩はコロナだろうが何だろうがあまり気にしていないらしく、いいよ行こう行こうと快諾してくれた。

で、本当はそれが今日だったのだけど、数日くらい前から明らかに第3波が来ている。陽性率が5%の水準を超えているし、若者だけじゃなくて老人も増えてるし経路不明感染者も増えている、結構よくない状況だなと、引きこもってコロナのインターネットばかり見ていた私は理解し恐れ慄いた。

さて、そんな状況で飯を食いにいくかどうかを考えた。多分、感染する確率よりも感染しない確率の方が高いはずだ。しかし私はリスクを重く見積もる。昔はそうでもなかったが、違法建築のようなシステムの改修を繰り返す中でより慎重な性格になったのだ。感染する確率は上昇傾向だし、その上レストランだ。
たまの出社時の休憩時間に飯を食いながら話しかけられたく無いからと、ビル風吹き荒ぶ公園で食事をする私が楽しく食事ができるだろうか?周りの客が感染予防の観点を無視した行動をとっても私は味を感じることができるのだろうか?もし感染して、自分が発症したら?私は風邪を引いたら重くなるタイプなのに?無症状だとして家族に移したら?来週の出社日に同僚に移してしまったら?

などと考え、これは飯食いに行っても大して楽しく無いし、美味くないし、しばらく心配して過ごすことになるんだろうなと思った。ちょっと前ならまあ大丈夫だろうと思えたが、今はそう思えないし、そう思った時点で止めようと思った。

ただ、誘ったくせに断るのってすごい申し訳ないなと。向こうは私と違って信号無視するタイプの人なので「そんなの平気だよ!大丈夫大丈夫!」とか言われたらどうしようかなーとか、確かに気にしすぎでは?とも思ってしまい、キャンセルしたいですっていうメッセージを送るのに2時間くらいかかってしまった。でも送った。先輩には申し訳ないが、ここ数年の弱った自分にしては主体性のある、自分の意志を押し通した行動を取れたのですっきりした。

しかも心配していたようにはならず、全然いいよ!またいこう!と言ってもらった上、会社の冷蔵庫にデザート入れておくから食べてね、とまで言ってくれた。なんて優しい人なんだ。

美味いものを食べる機会を失ったので、高い刺身やチーズを代わりに買って自宅で楽しむことにした。プロのように料理はできないが、まあこれでいいなと納得できた。引きこもり耐性がある程度あって助かった。しばらく冬眠する。


権利なので好きにすればと思うが、GOTOナントカの類を普通に使える人、気が合わねえなあ、と思う。ふるさと納税もそう。気が合わないだけなので存在しないで欲しいとか行動を変えて欲しいとかではない、気が合わない。気が合う人がもっと世の中にいて欲しいし出会いたいだけなのだが。

ゴミ捨て以外に外に出ることもなく、コンビニにも行かず2ヶ月間過ごしていたが、とうとう会社から出社せよとの命令を受けた。別に緊急事態宣言の解除は終息を意味しているわけではなく(とくにこの東京においては)、なのに出社を求められて思考停止を感じた。もう我々は対面でやんややんや言い合って会議することはできないのに。

とりあえず今週は週一でいいらしい。出社したくないとはいえ、さすがに4ヶ月放置したプリンのショートカットでは人前には出たくないし、そもそも鏡を見るたびに辟易してしまうので、美容室で髪を切って染め直した。またいつ来れるか分からないので暗めの色にした。

自分が2ヶ月間外出しなかったのは、感染症を恐れていたのもあるけど、外出する理由が無かったのが大きい。そして怠惰。

リモートワークの最初の1ヶ月はそれこそ毎日朝昼散歩していたけど、とくに白木蓮も梅も桜も散ってしまってからは散歩をする楽しみが減ってしまい、毎日毎日同じような景色を見ていることで、より「行動が制限されている!!」という気持ちになってきて発狂しそうになった。なので散歩はやめて、踏み台昇降をすることにした。

スーパーも元々ネットスーパーだったし、Amazonもよく使ってたので買い物に行く必要がなかった。最初はよくコンビニに行っておやつとか昼ごはんとかを買ってたけど、近くで大規模なクラスターが出たり、いろんなコンビニ定員がTwitterで嘆いているのを見て、やめておいた方がいいのかなー、と行かなくなった。

あとは、自分も夫もインドア派だったので、引き篭もろうと思えばいくらでも引き篭れた。そうなるともう外出する理由がなくなってしまった。

たしかに私も美術館に行ったり、うまいカレーやパフェ食べたり、帰りにウィンドウショッピングしたり、カラオケ行ったり、外の世界に趣味があったはずなんだけど、「あったなあ、そんな概念」という気持ちになっている。そういう夢を見ていた、というのが感覚として近い。あれはもう無い。手を伸ばしても届かない場所にあるから仕方ない。

そんなことを考えて思い出したけど、何かと理由を付けて行動を起こさないのが得意だ。人間らしいだろう。何もしない方がエネルギーを消費しないから合理的なのである。自分の中に強烈についている思考のクセがある。沖縄の離島に住んでいた時、「○○がしたい/欲しい」と思っても、そもそも海の向こうにしかないので手に入らなかったし出来なかった。親も何かをねだられたら、本当はあっても「そんなものはない」と言っていた。そのうちやる前から「でもどうせ無いしな〜」と思うクセがついてしまっていた。それは大阪に戻ってからも「大阪には無いしな〜」と思ってたし、東京に来てからも似たようなことを思っている。自粛向きの性格である。良かったと思う反面、このまま見たい景色も見れず死ぬのは、さすがに本当に嫌だな〜と思った。そう思うとやたらと外に出たがったり平常に戻ったと信じたくなる人たちの気持ちも理解できるような気もしてくるが、根本的に価値観が違う可能性が高い。

何もない、と諦めてしまった方が、「○○がしたいのに」と思ったり想像する必要が無くなって楽だなということを経験的に知ってて、この2ヶ月そうしているんだけど、何だか自分の人生って何だったんだろうと最近はずっと思っている。

まとまらなかった。

この記事は後半に向かって政治的主張を帯びます

大学4回生の後期に、もう卒業単位取り終わってるし今まで興味なかった授業を受けようと、経済学史の授業を履修することにした。

卒業できるわけだから、別に出たり出なかったりで良かったのだけど、こう、金銭的に無理して大学に入って、一時は大学院進学も考えたくらいだし、という矜恃みたいなものがあった。だから毎回きっちり出席して授業の感想もびっしり書いて、試験も受けた。矜恃以上に、なによりも授業の内容がすごく面白かった。それまで自分の専攻とは違う歴史の授業を受けたことがほとんど無く、シラバスを見てもピンと来なかった。だから、そもそも経済学史って何?と思っていたし、何で受けようと思ったのかもよく覚えていない。けれど、授業が終わる頃にはもっと早く受けていれば良かったとすごく後悔した。

と、まあ絶賛しているんだけど、どんなことを習ったのかが、これが思い出せない。

ただ、1つだけ印象に残っていることがある。「関税を撤廃して輸入を受け入れることが、いくら合理的だったとしても多くの人が失業することを許容すべきなのかが分からない」のような感想を書いて出席カードを出した。これは自分が高校生の時にTPPが盛り上がっている時から疑問に思っていたことだった。大学に入ってマクロ経済学の授業で、関税のない自由貿易というのがいかに良いか、ということを学んで理解したのだが、それでも自分の職を失う人が多く発生するということをどう受け入れればいいのか分からずにいたのだった。

すると、翌週の授業でその感想が取り上げられた。「僕の考えですが、関税があろうと無かろうと技術革新で世界は変わるし、どれだけ抵抗しても産業構造は変わって無くなる仕事はあるし、失業者も出る。それが歴史の中でも繰り返されてきた。でも、必ず代わりに新しい仕事が生まれる。馬の世話をやっていた人たちが自動車産業に従事するようになったり、そういう風に人は移動していったんですよね」と、教授はコメントをした。それに、何となく「ああ、救われた」という気持ちになったのだった。やっと「そういうもんだよな」と思えたからだった。

努力しようがしなかろうが、抗えないものがあって、それで人生が変わってしまう、それだけの力というものが社会には作用していて、自分の仕事が偶然突然その力で押しつぶされたり引き裂かれたりして、消えてしまう。誰もがそんな可能性の中で生きている。人生にはそのような喪失は付きものなんだと歴史が証明している。

いままさに、感染症という力学で色んな会社が倒産したり廃業・失業しました、という人をたくさん見ることになってとても辛いし、自分もそうなるかもしれない、と思っている。歴史から見れば、繰り返されてきた当たり前の光景なのだと思う。だから、それに対して自己責任だ、と言っている人間ども脳天を私はブチ抜いてやりたい。その人がどうだろうと、こういう状況に陥るのだと。自己責任論を振りかざす人も自分は違うと思いたい怖がりさんなんだと思うが。自己責任という言葉に対しては色々言いたいことがあるけどいろんな人が言い尽くしているしもう言わない。

なので、行政はセーフティーネットをしっかり張るべきだと思っているし、誰もが迅速にアクセス出来るような仕組みを作るべきだと思っている。そうなっていないとしたら声を上げて怒るべきだと思う。税金を払っているのに、ありうる災害から最低限の文化的生活を守ってくれない、関心や理解の無い人々、それを良しとしている人間がいる事が本当に許せなくてTwitterに何度も死ね!と書いては消している。

2020-04-21

KIRINJIの去年出たcherishというアルバムが好きだ。2ヶ月くらい前までよく聞いていた。全編通して完成度が素晴らしいし、現代の様々な人間模様や生活が忠実に描かれているな、と感じていた。自分のことじゃないけれど共感がある。しかし2ヶ月の間に世界は急速に変化して、今聴くと過去の時代の歌のように感じる。見せかけの好景気、今夜も満席のネットカフェ、今となってはハリボテすら剥がれ落ち出してネットカフェは休業している。休日に本屋映画館カフェなどやりたいことが多い、というのも過去のことでいまは自宅で過ごす以外の選択肢がない。自分が思っていた以上に世界が脆弱だったのでショックを受けた。戦争や災害は予想していたけどこんなふうに疫病で世界が一変するなんて。

11月ごろから9割の食事を自炊に切り替え、休日は引きこもってお金を使わないようにしていたので、あまり我慢している、という気持ちはない。ある意味幸運だった。貯めたお金で行くつもりだった新婚旅行は無くなりましたが。あとダイエットもしていたので服とかカフェとかへの支出も長いこと減らしていたため、それがゼロになってもそこまでダメージはない。ダイエットした後に撮ろうと思っていた結婚写真も無期限延期になりましたが。

こういうときに困った人の役に立てるようになりたいと思っていたが現実は自分の心配しかしていない。結局私も自分が一番大事なのだ。人の気持ちを鼓舞するようなコンテンツは作れないし、中途半端にエンジニアをやめたので困ってる人とお金が余ってる人をマッチングさせる、みたいなサービスもつくれない。とにかくクラウドファンディングや寄付をしている。そして2週間一歩もうちから出ていない。こんなことしかできないけどそんなもんなんだろうなという気持ちもある。残念。行政、頑張ってほしい。

知能検査WAIS Ⅳを受けた

12月ごろ、仕事も変わりたてで疲れ果てていたのだろう、夜中に精神的に辛くなって眠れなくなってしまい、やっぱり自分はカウンセリングに通うべきだ、と通いやすい場所にある心療内科を探し、カウンセリングの予約を試みた。

すると、心理検査・知能検査の予約を一緒にやっていると書いてある。確かに自分は何かしら能力に偏りがある気がする。発達障害には当てはまらない気がするが、たまに自分は人と違うと感じることがあり、グレーゾーンの気配はする。ケアレスミスが多かったり、パニックを起こしたりする。何かの手がかりにならないかと、カウンセリングを受ける前に検査することにした。

それでWAIS4という知能検査を受けたんだけど、これがまあ見事に偏っていた。

  • 言語理解 128
  • 知覚推理 84
  • ワーキングメモリー 112
  • 処理速度 93
  • 全検査 107

びっくりした。言語理解128も驚いたけれど、知覚推理が84しかない。積木を組む課題が全然出来なくて半笑いになったのだけど、他のも出来てなかったらしい。しかし、上と下の差が44もあるのはかなり珍しいらしい。

言語理解はその名の通り言葉の理解や、環境から得た知識の測度で、学校のお勉強が得意だった自分の性質がここに出てるなあ、という感想。

一方、知覚推理は、知覚や空間の処理、流動性推理、視覚と運動の統合の測度らしい。確かに、こう言われると不得意だろうなという感想を抱くが、正直平均以下の値を叩き出すと思ってなくて衝撃を受けた。デザインを仕事でやっていてこの結果は大丈夫なのか?という不安もある。

確かに、子どもの頃は図形問題だったり知恵の輪はかなり不得手だった。折り紙も、説明書をいくら読んでも理解できなかった。絵も注いでいる時間の割に上達出来なくて途中で本当に嫌になってやめてしまった。言語理解が優れていたことで、学校の勉強は基本的には努力しなくても出来てしまっていたのに、その中で手応えが全くなく、いつもなら優越を感じられる同級生たちよりも出来ないことがある。それがすごく辛かったなー、ということを結果を貰って思い出した。

かと言ってそんなに努力するわけでもなく生きてしまい、言語理解だけで全てをカバーしてしまったので、知覚推理は発達する機会すら無かったのだろうなと思う。

ワーキングメモリーが平均より高いのはすごく意外だった。これが一番だめなのかと思っていた。確かに暗算は得意だな。処理速度が平均から少し低いのも納得。ケアレスミスはここから来ているんだろうな。無理して速度を出して、正確性を損なっているという自覚はある。

総合所見では、視覚情報を即座に処理して正解を見つけるのが苦手、と書いてあった。そんな気がする。本当は忙しい飲食店のバイトなんか向いてなかったはずなのに、よく働けたなと思う。働けてなかったんだろうけど他に働き口が無かった。あと、ごちゃごちゃしたUIが苦手、イライラする、というのはここから来ているのだろうと思う。

書いては無かったけど、知覚推理が低いことで、初めて出会う状況とかはあまり得意じゃなくて、ルーティンワークの方が結果を出しやすいだろうとのことだった。今の仕事と全然違うじゃんというショックはあるけど、絶対そうだなと思える。1年位前に、当時の上司に「初めてやらせる事は結構辛そうだけど、2回目からはちゃんとこなすよねー」と言われた事があるが、まさにこの知能検査の結果を的確に表している言葉だなと思う。知識を得れれば、なんとかなる。ただし正確性やスピードは両立しないが。

だから、自分が仕事で結果を出そうと思うと、本でたくさん知識を得て自分の引き出しを増やして、新しく出会った事は、自分の知ってることに言語化・リフレーミングして、処理するのが良いのかもしれない。

今から知覚推理は改善できるのか?と聞いたところ、小学生くらいの年齢であれば可能かもしれません、と言われたのでもう諦めて、とにかく自分が得意な言語能力を活かして、じっくり考えてアウトプットを出す、みたいな働き方をすればいいのだろうなと思う。コミュニケーションは問題無いと思います、と書いてあったけど、臨機応変さが求められる場面はダメっぽいから商談とか交渉とか出来なさそう。逆に知覚推理が高くて、言語理解が低い人とのコミュニケーションは気をつけなきゃいけないかも。あと、基本的に自分は言語で指示ややることをはっきりさせなきゃダメだろうな、じゃないとどうして良いかわからなくなる。

こういうのがわかってよかったなー