子どものころから行動原理の核を成すのは公正さだったと思う。それらに対するこだわりがあった。
幼少期からいじめられていると半分くらいの人間はそうなるのではないか。あまりにも理不尽に晒されると何が正しかったのかを常に考えさせられる。正しくない人や物事が許せなくなる。Twitterで私刑を行っている人たちにはシンパシーを感じる。私はインターネットに慣れているしメタ認知力が優れているのでそういうことをしないだけで狡い人間を見ると強い憤りを感じる。
私も人間だから甘えてしまってあれはずるかったなと思うことはたくさんあってそれを思い出すたびに手首の内側を強くつねって死にたい気持ちに包まれる。
とはいえ人間がどういうものかが20数年生きてきて分かってきている。そんな常に公正で合理的な人は居ないし、自分のエネルギーと生命を守る方向に動くものだな〜と理解している。自分もそうなのだから、人も自分も許さないといけない。
だから良くしてくれている先輩が大通りで赤に変わった信号をタラタラ渡ったり、労働組合の懇親会補助金申請に、出席していない私の名前を使おうと、まあ別に私や誰かに危害が加わったり社会の秩序が崩壊するわけではないし、と少し嫌だなあと思いながら受容してきた。
公正さ以外に自分の根幹を成すものとして快楽の排除がある。周りの大人がアルコール依存症だったしタバコも吸いまくりで自滅していくのがバカみたいだなあ、正しくないなあ、と思っていた。そういうわかりやすい快楽をとにかく排除してきた。これは結果的に強迫性障害を発症させた。何にも依存できない人が強迫性障害になるという記述を読んだけど本当にそう。
こういう性質なので快楽に流されている人のことをあまり理解できない、というか共感ができない、そういうものらしい、というのは知っている。しかしそこまで自分をコントロール出来ないのか、なぜ何の心配もなく今を楽しめるのだろうかというのがピンとこない。
私はある種の狂人なのかもしれない。実際病気だったときは間違いなく狂人だった。街中の人間が全員ヤク中や売人かもしれなくて自分を薬漬けにしてしまう、もしくは自らなってしまうと思っており、外に出るのが恐ろしくて布団にくるまってガタガタ震えていた。ミュージシャンはみんなヤク中に違いないと音楽が一切聞けなかった。
そういう潔癖気味な人間だからなのか、なんでまだ会食をして旅行をして帰省を出来るのかが、全く理解できない……。それぞれ色んな理由があると思うのだけど、自分が移すかも・かかるかも・死なせるかも……という事実に私は耐えられないのだけど、それに勝る行動する理由って何なのだろうか。結局、自分さえ良ければ良いのだろうか?と乱暴な結論を導いてしまう。どうせ、こういった人たちは人を死なせたりクラスターを発生させてもケセラセラとして生きていくんじゃあないのか、私をいじめた人間たちのように……と被害者ぶった気持ちを抱いてしまう。こういう私怨は良くない。
日本は自由な国なので誰もが好きなように行動できるし、自由なのは正しい。正しいのでみんな自由にして欲しい。それは忘れないようにしている。私は自由がとても好きだ。でも……という気持ちが常にある。医療関係の人が悲鳴をあげていて、入院できる人が入院出来ていない。死ななくていい人が死んでいる。私はその事実に耐えられない。
私が考える自由は「拳を突き出してもいいが、人の顎が目の前にある時は拳を前に出してはいけない」なのだ。今は拳を突き出すべきではないのだと。私はそれが正しいと思っている。
だが、そうじゃない人が思っている以上にたくさんいる、むしろマジョリティですらある。分からない。何故なのか。私はそんな崇高なことを言っているつもりはないのに。色んな人がいる、それは分かる。しかしあらゆる色んな理由がこの現状に収束していく。分からない。そこまで、我々のバックグラウンドは違うのか。嫌われるのが怖い?家に居れない?寂しい?別に感染しても感染させてもいい?医療が崩壊していることを知らない?苦しんでいる人がたくさんいるのが見えていない?いま楽しいからそれでいい?人生は短いから?
多分どれを聞いても共感することは難しいのだと思うけど「なるほど」と思いたい。狂人の感性では普通の人の気持ちが理解できないので。軽蔑するわー、とかそういう感情はとっくの昔に消え去った。今はとにかく周囲を見て困惑している。間違っているのは自分の方かもしれないし、正しさについて考えていきたいから。
追記)出歩いている人は正しくなかったとしても現状について何も説明も対策もしない政府が全部悪いと思っている。
