2022年はとてもじゃないけどブログを書くぞという気持ちにはなれないくらい忙しかった。
去年は自分にとって変化の年になった。1年前は、会社をすごく辞めたい気持ちと、いやここは踏ん張って何かしらを改善するんだという気持ちが日々交互にきていた。1年後にはこの会社に居たくない、とは感じていたけどまだ転職サイトに登録するとかそういうことはしていなかった記憶がある。あーもう働くのは無理だなとなってからは早くて、十分に休暇をしてからさっさと転職先を決めた。今思えば、その時期は相当に求人があってラッキーだった。私は自ら不幸を選んでいるようなところもあるけど、その分幸運に対しても鼻が利く。転職先も大正解だったし、折れるべきタイミングで心が折れたのも、無意識によるものだったのかもしれないと今は思う。
転職して、まあ3ヶ月くらいしたら慣れるだろうと思っていたが実際は半年くらいかかった。やっと今は無駄に心のリソースを使わなくても会社に行けるようになった。それまでは毎日脳がオーバーヒートしていて、何もわからない、何もわからない、と思いながら毎日過ごしていた。
仕事内容は前とは全く違うとも言えるし本質は同じとも言えるようなことをしているが、今の方が面白さも苦しみも両方強い。苦しみの質が違うので今の方が断然いい。ただし苦しい。それは自分の実力不足にもよるものだが、1年前はずっと同じようなことをしている感覚もあったし、狭い世界にいるような感覚も受けていてそれがひどく恐ろしいという感覚もあった。今は世界の広さも感じるし、自分の能力は下から数えた方が早いなあという意味で安心感がある。加えて、毎月、先月よりはうまくできているという感覚が得られている。
それでも、私はこの仕事に相応しい人間なのかなあと思うことは時々あって、もし次転職する機会があれば、必ずしもこのポジションにこだわる、ということはないだろうなあと思ったりする。転職活動中にそこそこ引き合いがあったのが今の職務内容であり、そのうちに自分としてもこだわってしまって、絶対この仕事しかやりたくない、と思っていた。
それで、いまこの仕事をしているわけだけど、結局自分は仕事内容とかよりも、周りの人を活かすとか喜ばせるとかそういうことに関心があるんだなあということがわかってきた。経営に共感ができて、ある程度職場環境が整っていて、同僚がコミュニケーション可能な人であれば、自分はこの業界のだいたいの現場仕事は、それなりの水準でこなせてしまうだろうと思った。もちろん高い技能を必要とするものは無理だが・・・。結局IT業界は知的好奇心の有無が全てを決める気がする。
まあ、なので、もし自分が役に立てるのなら、パソコンを使う仕事ならなんでもするし、できればチームで働けるところで、なおかつ会社が合っているところであればなんでもしますよ、が今後の方針になるだろうなあと思っている。そういう意味だと今の会社以外にはそうそう見つからないなという感触があるので、あと5年くらいは同じような仕事をし続けると思われる。
いま書いたことは、3年前にはおそらく到底辿り着けなかったと思う。人間関係は煩わしいし、1人で職人のように働きたい、と感じていたし、自分の感性を使ってアウトプットをし続けたいと思っていた。マネージャーなんて以っての外だろうと。まあそれは結局人間関係に疲れ果てていただけだと思う。自分が調子のいい時は人間関係が良好な時だったし、その人間関係の中で何かしら自分が貢献できるというか、ケアできる何かがあった時だった気がする。一人っ子だし、1人が好きだと思っていたし、鈍臭いから人と一緒に何かやると足を引っ張るからいやだ、と感じていたけど、だからこそ、人間社会に貢献できることに魅力を感じるのかもしれない。本当につまらない人間になってしまった。まあそれでも、今はチームが力を出せている時が嬉しいと感じるし、新しく参入した人が活躍していると微笑ましく思う。くだらねえ。こう思えるのは会社が相当まともだからなんだろう。
充実してるんじゃねえか、という一方で、自分は相応しくないのでは、と思うくらいには求められる水準はかなり高くて、相当勉強が必要だなと感じているが、大学受験の時くらいどうすればいいかがわからない。大学受験の時はどこから手を付けるべきか、何ももわからなくて1ヶ月くらいしかまともに勉強していない気がする。学生には予備校があるが、今の仕事には予備校はない。
今までの人生のアンチパターンとして、こういう時に
- 勉強法とか、そういうのを調べる
- 壮大な計画を立てようとする
- 何をするかも決めてないのになんかしら、その分野の「やり方」を調べる など
っていうのがあって、今まで全部うまくいかなくて、自分は価値のないダメ人間だと、才能はないと、発達障害の疑いがあるからと、そういう風に生きてきて、場当たり的に身につけた能力と知識だけで生きてきたけど、もうそういうのは辞めたいと心底思っていて、今年は何かしら少しでも努力をして欲しいものを手に入れましたねという実感を得たい。
結局アンチパターンをとってしまう背景にはいくつか理由があって、完璧主義と、自分に厳しすぎるのと、効率の良さを追求してしまうこと、禁欲主義が背景にあると思っている。
100点を取らなければ意味はないし、無駄な回り道をしたくないし、やっても結果が伴わなければ愚かだし、苦しくなければ勉強ではない、というのが自分の中にあると思う。楽しいということすら恐ろしいと思っていた。楽しいことをするというのは遊びを意味するし、勉強をしていないのだと。こういう性格は仕事の限られた場面では有効に働くし、実際危機対応や納期の厳しい仕事や長時間労働で自分は実力を発揮していたが、それ以外の平時(しかも9割はそういう時間だろう)は逆に苦しさや無価値感を感じてすらいた。
勉強は楽しんでよいし、回り道をしたとしてすぐに結果が出なくても良い。続けることに価値があるし、やったほうがいい。苦しくてつまらない、と思えることはやり方を変えてもいいし、優先度を下げてもいい。本当に望むことであれば毎日5分でも簡単なことだとしても続ける。負けても良い。
実際、そういう人が高いスキルを持って楽しく働いているし、自分がやりたいと思えることができているように見える。30年近く生きてきて数日前にこれに気づくことができた。自分に厳しくするのは良くないということには昨年くらいにようやく気づいてきたけど、思ってた以上に自分自身に対して毒のように働いていたのかもしれない。実際、これに気づいてから心身が軽い。多分、わかっていてもそのように振る舞うのは難しいし、おとといくらいも自罰的な感情で労働していたくらいなので、自分がやりたい勉強をできたりやりたいことに着手できるようになるのはもう少しかかるかもしれない。
こういうことに気づくたびに自分が受けてきたしつけのことを思い出して、ああいうことさえ無ければなあとは思うが、その分人の苦しみがわかる人間になれたんじゃないですかね。