技術がつまらないのは、わからないからだった

WEB系のエンジニアになって早3ヶ月、最初本当に苦痛で仕方なかった業務も慣れてきて、「面白い」と思えることも増えてきた。この3ヶ月の所感でも書いてみようかなあと思う。

「努力すればある程度できるようになる」というのは初めから分かっていたことだったが、それとは別に自分は技術を好きになる才能が無いと思っていた。周りのエンジニアがなんでそんなに楽しく技術の話で盛り上がれるのかが理解できなかったし、そんなに「楽しい!」と思えなかったからだ。

よくよく考えれば、今の会社に入るまで、せいぜいHTMLとCSSくらいしか触ったことがなくて(しかも10年くらい前)、全くゼロの状態であーだこーだ言われたらそりゃあ苦痛でしかないよなあと。そのとき頑張って及第点が取れても、またすぐに取っ掛かりの無い問題が降ってくるのもうんざりだった。

ただ、3ヶ月無理やりにでも詰め込んでいると、法則性が見出せなかったところにも法則性がなんとなーく見えてきて、「向こう」の言いたいことが徐々にわかってくるようになった。確率は低いけど、仮説が部分的に当たるようになってきた。そうすると楽しい。「もっと知りたい!」と思えるようになる。

比較的オタク気質で、雑学大好きな人生を送ってきたので、知的好奇心が無い人の気持ちがわからなかったのだが、ここに至る過程でようやく理解ができた。
「知識が根を張っていない場所」では知的好奇心は湧かないのである。
知的好奇心が無い人に興味を持たせるには、知識の種を蒔くだけではなく、ちゃんと水や肥料をやることが大事なのだと思う。あと、土壌は限られているしそんなに肥えていないので、急に種を蒔きすぎるとなかなか根付かない。

文系出身の人間は、それまでの人生で技術に一切触れていないことが多いので、土壌がまっさらだったりする。そこに難しい言葉でまくし立てるのは、無意味なんじゃないかなあと思う。自分が後輩持ったときはそこんとこ覚えておきたいし、自分がそういったものにマイナスな感情を抱いていたことは忘れないようにしたい。

あと、良くなかったなあ、と思うのは、いままでの自分の人生でそんな経験がなかった事じゃないかなあと思う。
学校での課題って、まず課題を解く前に、軽く知識や前提みたいなのを教わって、それを用いて課題を解くじゃないですか。でも仕事の場合は、そういう場がある方が少ないので、自力で調べたり、人に聞いたりして、よくわからんエラーメッセージと格闘しながら完成させていくしかない。

学校の問題は、自分で仮説を立てることも容易いし、解説を読めば大体理解できたんだけど、プログラミングの場合は仮説も外れるし納得のいかないことばっかりで本当に疲れてしまう。甘ったれたせっかちな人生を送っていた自分にとって、こういう経験は初めてだった。そんな毎日でなかなか楽しいと思えず「エンジニア、マジで向いてないな〜」と感じさせられていた。

でもそれから数ヶ月経って、今は「もしかしたら向いてないのかもしれないけど、楽しくなってきたし今後も続ける意志はある」という形に変わった。
「辛抱強く耐えれば、向いてないなー、無理だなーと思う事も解決する可能性がある」という事を学べたのは非常に大きいなあと思う。

なので検索でこのブログに来る、新米エンジニアの人がいたら「今は仏門に入っているんだ・・・」という気持ちで頑張って耐えて欲しいです。プログラミングみたいのが得意とは言えない私でも3ヶ月やってたら光が差してきたので、案外なんとかなるんじゃないでしょうか!

プログラミングを好きにさせてくれた恩師の本でも貼る
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「ありのままじゃ許されない」という強迫観念

最近、ふとした瞬間に小さい頃のトラウマを思い出す。

トラウマといっても、自分の中では整理がついていて、とくにパニックを起こすわけでもないし、「あーそういえばそんなことあったなあ……」と思う程度のマイナスな思い出である。

どういうものかというと、

  • お絵描きの時間に、みんなは集まって絵を描いているのに自分はその輪に入ることができない
  • 鬼ごっこしよーってなっても必ず最初は自分が鬼
  • 学童保育で、ポテチの最後の1個を取ったことに対して周りの子供から責められて、全員から絶交だといわれる

割と大人になるまで気づいてなかったんですけど、すげえ暗い幼少期なきがする。

なんというか、いわゆる「THE 一人っ子」という子供だったのである。周りに合わせることもできないし、気を使うとか譲るとか、そういう発想がなかったんだと思う。さらに興味の方向もちょっと変だったり、自己主張がはっきりしているせいでそういった軋轢をちょいちょい生んでいた。もしかしたら子供ってそういうもんだったりするのかもしれないが。

で、そういった「気を使う」「周りに合わせる」「自己主張を控える」みたいな日本社会に適応するためのスキルって、成長に伴って獲得したり、慣れていくもんだと思っていた。

しかし、最近「気を使う」という行為が死ぬほど苦痛だということに気づいてしまった。

23年生きていく中で、「気を使えない」ということで、いじめられたりするなど不利益を被ることが多いと気づいた私は、必死に周りの機嫌を伺って、気を使うようになった。だが、私は本質的には「自己中心的で自分の世界に没頭しがち」な人間であることをさっき思い出した。そんな人間が気を使う、というのはどうやら物凄く疲れるらしい。普段は抑圧したり、苦痛に慣れていたとしても、やはり時々その痛みが顔を出す。そうなると自己中心的な自分が露呈される。

自分が物凄く自己中心的な性格をしているというのは自覚していて、親とかいろんな人からその性格治しなよという指摘を様々な形で頂戴しており、23年間努力しているのだがあいにく治らない。もうこれは「そういうもの」なんじゃないか。人間が酸素を吸って二酸化炭素を吐いているのと同じなのでは。

もしそうなのだとしたら、もう努力するだけ無駄なので気を使うのをやめたいんですよね。
そのエネルギーを別のところに使いたい。
「ここで私が自分の意見をガーっていうと、他の人が主張するチャンス無くなるよなー」とか、そういうの考えるのやめたい。結局自分が損する場面ばっかりだし。

あー、やーめた。

と、最近何度も思うのだが、結局やらない。いつものように薄ら笑いを浮かべて毎日を過ごしている。なんで出来ないかなー、と思うと気を使うのをやめると、昔みたいに仲間はずれにされたり、嫌な思いをするんじゃないか、という恐怖が心の奥底にあるんだなーと、冒頭のトラウマに気づかされた。

このような、「自分は猫を被らないと、社会に溶け込めない」「ありのままでは許されない」みたいな気持ちは至る所で感じているな、と最近気がついて、それがぼんやりとした息苦しさにつながっているように感じた。できることなら気付きたくなかった。